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夏休みの宿題を助けてくれた広瀬さん

そろそろ小学生は夏休みの宿題を仕上げるのにラストスパートの時期。
昭和40年代に小学生だった私も例にもれず、ラジオ体操から帰ると宿題と格闘していました。
特に困ったのは「自由研究」で、毎年なぜもう少し早くから手を付けなかったのか後悔ばかり。

そんな私に優しく手を差し伸べてくれたのが「広瀬安美さん」でした。
といっても、ご本人と直接お会いしたことはなく広瀬さんの本が私を助けてくれました。

広瀬安美さんは ーーーーー
大正13年下関市生まれ、太平洋画学校卒業後 新聞社勤めをしながらマンガをかき独立、
作家活動に入り、民家を中心に全国各地でスケッチを重ねるとともに民芸やおもちゃにも焦点をあてる。住まいは神戸市の西隣の明石市。(画集 神戸の異人館より引用)
広瀬さんの画材は水彩絵の具や色鉛筆で色をつけたものもあるが、画用紙に黒インクのペンを使うことがおおい。その精緻さは後ほどご覧にいれます。
個性的な画風が人気を呼び、新聞の連載・絵画展の開催・画集の出版と大活躍。
昭和53年(1978)3月23日没。
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自由研究で助けてもらう以前から広瀬さんの著書が祖母の書棚にあり、「えほん・コウベ」(昭和47年発行)が大好きでした。


絵の傍らに可愛い女の子が描かれ、やさしい絵のタッチに小学生のとき、とても親しみを感じ、なんどもなんども本を開いてみていました。
※タイトルは「えほん」とはいうものの、絵のとなりに書いてある文章にはまだ読めない字が並んでいて、もっぱら絵ばかりながめていました。

ン十年の時を経て、広瀬さんの原画をみせていただく機会を広瀬さんのご子息にいただきました。

額に入っていましたが、小学生の頃 印刷されて見ていた本の中の絵が目の前にあるのはなんとも言えない感動です。

紙に茶色のしみのようなテボテボがついていたり、ところどころ黄変している紙が年月が半世紀以上経っていることを物語っています。

栄光教会/下山手通
阪神大震災で倒壊した建物、現在も同じ場所に教会があります

現在のラインの館/北野町
建物の色がすっかり変わりイメージが違います

移情閣/舞子
現在はこの場所より少し東へ移築

建物がとても正確に細かく描かれていますが、温かみのあるほのぼのした絵でしょ。
「安」のハンコと女の子が描かれているのも、広瀬さんの絵の特徴です。

何冊も出版されている本の中には、文庫本サイズもあり若い人が北野町や異人館を巡るガイド本になったに間違いないと思います。
※ちょうど昭和52年(1977年)にNHK連続テレビ小説「風見鶏」が放映されました。

昭和50年代に、神戸では「異人館ブーム」がおこり多くの観光客が訪れるようになりましたが、その火付け役に広瀬さんも一役買っていらっしゃったと思います。

私は広瀬さんが絵を、残してくださったことにとても意味を感じます。
写真だと周囲のいろんな情報も一緒にとりこむので、肝心なものの印象を薄めてしまうことがありますが、広瀬さんの絵は人間の目と同じように伝えたいものだけを描いています。

例えば、この「一棟だけ残った異人館」の絵もそうです。

一棟だけ残った異人館/北野町
実際には人一人が通れるぐらいの道沿いに建っていて写真では全景が写せません

風見鶏の館/北野町
写真と建物の角度は違いますが、全体の姿は塀や樹木で見にくくなっています

今回記事を書くにあたり広瀬さんの本を図書館で借りて隅々まで読むと、描いた建物や風物に対する説明なども文章になっていて、建物を知る上で大切な情報です。
あとがきには、ご子息から聞いたご苦労や描き始めた経緯、関わった人々など広瀬さんの人なりを感じる記述も多くあります。

 

そうそう 私の夏休みの宿題に話をを戻すと、自由研究のお題は確か「北野町の異人館」でした。
当時は、ほとんど住居として使用されていたため、外から建物を写生をして資料を作っていたら、近所の方が「画集 神戸の異人館」を貸してくれました。
画集は風見鶏が描かれたハードカバーに入っていて、ページを開くと私のよく知っている広瀬さんの絵が大きく描かれています。
写生では写し取れない建物の姿を、扇風機の前で広瀬さんの画集を見ながら無事に仕上げられました。
ズルだと言われそうですが、ちゃんと告白したので許してください。
広瀬さん、その節はお世話になりました。


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ではまた次回をお楽しみに♦

※広瀬さんの絵は、現在明石市立博物館が保管されています。
絵は許可を得て撮影しました。
※広瀬さんの本は、神戸市の図書館に一部あります。