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満150歳!神戸駅☆History

今年、5月11日で満150歳を迎える「神戸駅

 

神戸駅誕生からのヒストリーを探ってみようと思います

 

1874年(明治7)5月11日

神戸 ⇔ 大阪 鉄道開通により誕生した神戸駅

神戸・大阪間の当時の所用時間は、1時間10分

 

イギリス製レンガを使って、木造とうまく組み合わせた駅舎でした

当時は「駅」とは言わず「停車場」と言っていたようです。

 

そして、当時の神戸駅は今とは違う場所にありました

           明治14年(1881)の神戸駅付近の地図 松田元次氏蔵

 

 

この地図を見れば、神戸港のすぐ横にあるのが分かります。

今の「ハーバーランド」一帯です。

 

明治維新直後の1868年1月1日に「兵庫港」として開港した「神戸港」は

貿易港として大変繫栄し、商業の流通の拠点として

鉄道とつながりを持つようになったようです。

 

<過去の関連ブログ>

poko2023.hatenablog.com

 

鉄道桟橋は神戸桟橋とよばれていました。

船で運ばれた物資を神戸駅まで運び、乗せ換えて各地へ輸送されました。

 

1877年(明治10)2月5日

神戸 ⇔ 京都 全通

 

このころ琵琶湖を連絡船で結んで

神戸 ⇔ 敦賀の路線を開通させ、鉄道建設を進めるため 神戸駅構内にあった工場は

鉄道敷設用資材・機材の供給、調達や技術者の派遣などで活躍しました。

 

 

1889年(明治22)3月

この時、今の場所に神戸駅が作られました。

平屋から二階建てに、総レンガ造りに進化しています。

 

同年7月

神戸駅を終点とする東海道本線(当時はまだこの名称はなかった)開通

この時から、ずっと神戸駅東海道本線の終点の座を守っています。

 

1901年(明治34)5月

山陽本線の起点駅として下関まで開通

 

神戸駅ホームから見えるキロポストで、確認!

東京・起点 589,340km 東海道本線 

神戸・起点 0km 山陽本線

 

神戸駅が、

東海道本線の終点駅!・山陽本線の起点!

ということを知らない人も多いのでは?

 

この時から

神戸港で荷揚げされた多くのモノが、九州や関東へと運ばれ

東西をつなぐ鉄道の大動脈ターミナルとなりました。

 

神戸で日本一の総合商社「鈴木商店」も

大いに神戸駅を利用した事でしょうね

poko2023.hatenablog.com

 

 

1934年(昭和9)12月5日

3代目、鉄筋コンクリート作りの神戸駅誕生 ~ 今に至る!

 

え~っ!

今の駅舎、戦火をくぐり90年建ち続けているのですか…

駅前のロータリーは美しく整備されていますが、建物はそのままですね。

 

昭和に入り、鉄道のダイヤが過密になり

開かずの踏切問題が発生し、問題解消のため市内の鉄道を高架にする工事に伴い

駅舎を新しくしたようです。

 

半世紀前の子どもの頃も

開かずの踏切で、長時間踏切待ちをした記憶があります。

 

長い長い貨物列車を見るのが好きでした。

石炭を運んでいる貨車・牛も運んでいた・カラフルなコンテナ…

何となく楽しかったのを覚えています。

 

たしかに、踏切待ちで人も車も渋滞していましたね。

高架にしても、あまり解消できていなかったのかしら?

 

その当時、父の実家(田舎)からモノが送られてくると

神戸駅で保管されていて、父が取りに行っていました。

当時は配達制度などなく、各自が駅まで取りに行くのが当たり前の時代でした。

 

 

 

いいね。やっぱり神戸が好き。

 

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ではまた次回をお楽しみに ♥

 

 

 

神戸駅150周年記念に、JR西日本グループは様々なイベントを企画しています

 

 

 

こんなヘッドマークをつけた列車も走るみたい! シールもあるみたい!

 

www.kobe-osaka-150th.com

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経年変化の中にも昭和の栄華が香る

和田岬中央市場の近くに奇跡的に残っている「岡方俱楽部」(おかかたくらぶ) が、全面改修を前に最後の内覧会をやっていたので最終日に見に行ってきた。奇跡的に残っているというのは、第2次世界大戦時の神戸空襲、1995年の阪神淡路大震災をくぐり抜けてのこと。2018年には国の有形文化財に指定されている。

神戸市営地下鉄中央市場前から徒歩で10分ぐらい。このあたりは兵庫津(ひょうごのつ)と呼ばれていた。以前の西国街道の記事でも少し紹介したことがある。

 

poko2023.hatenablog.com


兵庫運河を渡って、右に折れて真っすぐ行けば「岡方倶楽部」が左手に見えてくる。

岡方というのは、どういう意味か。江戸時代後期に兵庫津を管轄する際に、行政区分を南濱、北濱、岡方の3つの分けたときの名称だそうだ。

この岡方倶楽部は、昭和2年に兵庫の商人の社交場として建築された。時期からして、大正時代の建築様式が特徴とされている。大正時代の建築は、関東大震災の影響で、レンガ造りから鉄筋コンクリートに変わってきたところが特徴。デザイン的にはアーチが多いのかな。岡方倶楽部を正面から見た感じは、東京駅に似ているかも。

左が岡方倶楽部 右が東京駅

 


正面玄関は、アーチ状になっていて、床はタイル。

正面入り口です
床はタイル貼り  ドア上部には洋風欄間?

 


中に入ってみる。北野の異人館とは違って、そのまんま残されてきた感じ。人工的なエイジングではなく、リアルな経年変化そのもの。これはこれで良いと思う。

玄関を入ったところ 昔のまんまだと思う
トイレもそのまんま  開かなくなってしまったので開かずの間

 


正面中央に階段を配し、その両側に部屋を作るという典型的な洋風建築様式にのっとった間取りです。

明り取りの窓が大きくて階段は明るい

 


開かずの間ばかりではなく、開いている部屋にも入ってみます。天上や廻り縁に相当するところの造作も凝っていますね。開口建具枠もりっぱです。

蛍光灯は後付けの感じがします

 


室内ドア建具枠の室内側には何か乗っかっている。これもこの時代の特徴なのでしょうか。ドアの装飾も手が込んでいる。

凝った装飾というか手間がかかりそう。。。

 

他にも気になった箇所や小物を紹介しておこう。

両開きの室内ドア建具の上部にも洋風欄間っぽい造作があった。階段腰壁スリットも今のとはちょっと違った感じ。

洋風欄間?と階段腰壁スリット
階段踊り場の照明とフリップフロップの押しボタン式スイッチ

 

ソケットが割れて落っこちそうな照明だが機能している。こういうのも上手に改修して安全な状態で残してほしいモノです。この押しボタン式のフリップフロップのスイッチは「押したい」衝動にかられたが、我慢して写真に収めてきた。普通はトグルスイッチかシーソ式のスイッチが使われるところだろう。今では、あまり見かけないスイッチだ。

 


全面改修前の最後の内覧会ということで、神戸アーカイブ写真館から提供されている昭和初期の写真や、3階の大広間では改修後の岡方倶楽部と移設予定の神戸文書館の有効活用についての意見交換会みたいな催しも実施されていた。

昭和4年の風景  意見交換会はアンケートもあった


この近所には以前ブログで紹介した兵庫津ミュージアムがある。

poko2023.hatenablog.com


これらと岡方倶楽部のような貴重な文化財と神戸アーカイブ写真館や神戸文書館のような歴史を記録しておく施設は、うまく連携して地域の歴史を残していってほしいものである。

今回は経年変化の中にあっても、昭和初期の神戸の栄華を感じることができた。歴史的な建造物を残しておくことは、やっぱり大事やね。

さて、この岡方倶楽部、どのように全面改修されるのかな。開かずの間も開くのかな?楽しみですね。

 

いいね。やっぱり神戸が好き

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ではまた次回をお楽しみに ♣

 

桜博士、笹部新太郎の偉業

阪急岡本駅の北西に岡本南公園(櫻守公園)があります。笹部新太郎(1887-1978)の邸宅跡を神戸市が買受けて桜公園にしたものです。

笹部新太郎邸宅の門跡と見事に花が咲き誇る公園
ササベザクラの説明            「櫻守」水上勉

桜と言えば通常はソメイヨシノです。代表的な園芸品種だそうですが、古来より日本の伝統芸能や和歌に登場する桜はヤマザクラなどの野生のサクラで、「吉野の桜」はそれにあたるようです。そんなヤマザクラや日本固有種の桜の保存と育成に生涯を捧げた人物が笹部新太郎です。人々は彼を“桜博士”と呼び、水上勉の小説『櫻守』に登場する竹部庸太郎のモデルにもなっています。

小説『櫻守』の一節を紹介します。

  「弥吉をつれ、橘喜七が、阪急電車の岡本駅を降り、山手へ十分ばかり歩いて、屋敷町にある竹部庸太郎の家を訪ねたのは、昭和十八年の六月、梅雨空のうっとうしい一日である。」

また、ソメイヨシノについては

  「日本の桜でも、いちばん堕落した品種でこんな花は、昔の人はみなかったという。本当の日本の桜というものは、花だけのものではなくて、朱のさした淡みどりの葉と共に咲く山桜、里桜が最高だった。」

  「あれは、花ばっかりで気品にかけますわ。」「土手に植えて、早うに咲かせて花見酒いうだけのものでしたら、都合のええ木イどす。全国の九割を占めるあの染井をみて、これが日本の桜やと思われるとわたしは心外でねや」

と記述され、古来種を愛した桜博士であったことがわかります。

 

笹部新太郎は、1960年には岐阜県の御母衣ダム建設に伴い、湖底に水没することになる400余年の2本の老いた巨桜の移植を成功させる奇跡を生みました。荘川桜物語としてその足跡が残されています。

www.jpower.co.jp

今も健在の荘川桜 撮影/前川彰一               公園内の碑

櫻守公園にはササベザクラをはじめ、エドヒガン、オカモトザクラなど10種約30本の桜が植えられています。

サクラの種類の解説

公園の中の桜を見てみると、

オオシマザクラ

オオシマザクラ花や葉も大きめ。花も葉が同時に出て、咲き始めは純白。花弁は5まいで先端に浅い切り込みがあります。塩漬けした葉は桜餅に使われるようです。

 

オカモトザクラ

オカモトザクラは本公園で発見された桜です。オオヤマザクラオオシマザクラの交雑の結果、誕生したと考えられるそうです。微淡紅白色、一重咲き、大輪が特徴です。

 

ヤエベニシダレ

イトザクラはシダレザクラと呼ばれて、枝が柔らかく枝垂れるサクラの総称です。狭義のシダレザクラの他、ベニシダレ、ヤエベニシダレ、ウジュウシダレなど多くの新品種があリます。

 

ササベザクラ
ササベザクラ

公園内にはたくさんのササベザクラが生育しており見事な花が咲いています。
その経緯や花の構造が説明されています。

ササベザクラは、笹部氏の邸宅にあった桜で遺言により名付けられたようです。おしべが変化して旗弁という花びらに変化して、八重桜との間(半八重)に分類されています。カスミザクラとサトザクラ類との交雑種と推定されています。枝の近くに密集して咲くのが特徴のようです。

 

桜と言えば、華やかなソメイヨシノしか思い浮かばなかったのですが、小説『櫻守』に描かれた笹部新太郎の桜に対する情熱と実際に櫻守公園に咲いているいろんな種類の山桜を見ると、改めて日本固有の桜に興味を覚えます。毎年この季節が楽しみです。

 

いいね。やっぱり神戸が好き。

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ではまた次回をお楽しみに♠️

 

神戸の街道物語り ☆ 西国街道に残る菅原道真の足跡

今回は神戸市内にある、西国街道(旧山陽道)を通って

大宰府へと左遷された、菅原道真の足跡を辿ってみることにしました。

 

西暦901年1月25日に、醍醐天皇から左遷の勅使を受けた菅原道真公は

2月1日、長岡京あたりから淀川を下り、川船と海舟を駆使して幾度かの

風除け・波除けで陸に降り立った地が

大輪田泊おおわだのとまり(神戸市兵庫区本町1丁目1-1)

現在の大輪田泊跡は、整備されモニュメントが設置されていました

平安時代大輪田泊は、山が迫り土地が少なくさらに、明石海峡の激しい潮流で

船の難所といわれていました。

なので菅原道真公は大宰府を目指して、ちょくちょく陸に避難したようです。

 

西国街道

西国街道(黄色線)

今の国道2号線が、ほぼ西国街道と同じルートだとが分かりますね

 

当時の道真公は59歳!

しかも左遷命令は、西国街道にある駅家にも伝えられており

乗り継ぎの馬や食料・宿泊もさせてはならないという

非常に厳しい旅になりました。

 

神戸市内を走る西国街道には

道真公の痕跡が数多く残されています。

 

その一例が、町名です。

   長田区梅ケ香町           須磨区飛松町・板宿町・板宿八幡宮

長田区梅ケ香町(うめがかちょう)は、

前に兵庫運河があり、道真公が立ち寄られたという

言い伝えから町名になったようです。

 

須磨区飛松町は

道真公が京都で大切にしていた、桜が枯れてしまったこと

また、大切にしていた梅はその香りを届けてくれているというのに

松だけは知らんぷりをしていると、その気持ちを

 

梅は飛び 桜は枯るる 世の中に

      何とて松のつれなかるらむ

 

と詩を詠んだら

一夜にしてこの地に松が飛んできたそうです。空飛ぶ松! (≧▽≦)

 

実際、この「飛松」は実在しており高さ30mの立派な松で

西摂大観の中の「摂陽群談」(1701年)などに、紹介されているそうです。

 

残念なことに、大正時代に何度も落雷に遭い枯死してしまいました。

その切り株が、板宿八幡神社の天神社で奉られており

大宰府の梅・板宿の飛松として慕われています。

板宿の飛松の切り株(板宿八幡神社のHPよりお借りしました)

 

さて、この板宿という町名も

道真公がこの地で泊まる時、村人たちが板で囲いを作って

急ごしらえの宿にした所から付いた名前だそうです。

 

今でいう仮設テントみたいなものですね

本当に冷遇の旅で、気の毒すぎます。

 

神戸市内には

菅原道真公を祀った多くの天神社や天神神社があるのは

実際に、道真公が通ったからでしょうか。

 

北野天満神社(北野町)・ 天満天神社(荒田町)・ 五毛天神社(国玉通)

柳原天神社(東柳原町)・ 綱敷天満神社(御影町)・ 綱敷天満宮須磨区

有馬天神社(有馬町)・ 飛松天神社(板宿町)・ 今寺天神社(西区)

 

下線の天神さんは、西国街道に近く大輪田泊で船を降りてから

道真公が立ち寄る事が出来たであろう天神さんですね

 

西国街道から、かけ離れた所にもありますね。

これは多分、道真公が立ち寄られたのでなく

彼が没した後、これだけ冷遇された道真公の祟りで

都を中心として、不吉なことが頻繁に起こったのを恐れ

道真公の魂を鎮める目的で建てられたのもあるのでしょうね

 

神戸市内を走る西国街道にある

菅原道真公のエピソードだけでも、どれだけ辛い旅だったか偲ばれます

 

須磨区にある「菅の井」も西国街道沿いにあり

道真公が嵐を避けるため須磨に立ち寄った折

この地の前田氏が、屋敷の井戸水を振舞ったところ

道真公はとても喜ばれたそうで

 

以後、この井戸を「菅の井」と呼ばれるようになり

また、「菅公お手植えの松」が史跡として残されています。

 

菅の井

菅公手植えの松

西国街道道標

基本、道真公は船旅で大宰府を目指したのですが

何度も嵐や難所に遭遇しては、陸路の西国街道を歩いたようです

旅の日数は55日、掛かったそうです。

 

通常の陸路旅なら、2週間で到着できる旅程だそうですが

如何せん、宿はなく食事も提供されず、馬にも乗れないのでは

船旅しかないですよね。

 

政敵に嵌められての、仕組まれた左遷!

道真公の死後、政敵が次々に病死・火災に見舞われては

自分たちがやった、悪どい仕打ちに対する道真公の怒り・呪い・祟りと

恐れても、自業自得だわ。

 

 

それにしても

西国街道沿いの村人たちは、板で宿を作ってあげたり

井戸水でもてなして上げたりと、優しい人が多かったのですね。

 

今から、1123年前の

神戸の地の西国街道を旅する、菅原道真に思いを馳せてみました。

 

 

追記:

菅原道真の孫が、源氏物語で有名な紫式部の父・藤原為時だそうです。

やはり、天才・学問の神様の血筋は受け継がれていたのですね。

 

 

☆参照文献

itayadohatiman.jimdo.com

 

 

☆関連ブログ

学問の神さまには見どころがいっぱいー北野天満神社 - もっと KOBE ずっと KOBE (hatenablog.com)

 

はじまりは兵庫津(ひょうごのつ)から - もっと KOBE ずっと KOBE (hatenablog.com)

 

難所 和田岬をバイパスせよ - もっと KOBE ずっと KOBE (hatenablog.com)

 

神戸で、光源氏ゆかりの地を訪ねて - もっと KOBE ずっと KOBE (hatenablog.com)

 

 

 

いいね。やっぱり神戸が好き。

 

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ではまた次回をお楽しみに ♥

 

リアルにすごい!技術もすごい!

仕事で淡路島に行くことがあっても、半日ぐらいで用を済ませて帰ってこれる。明石海峡大橋のおかげだ。明石海峡大橋という名前ですが、この橋は神戸の舞子から淡路島に渡る橋なんです。1998年春に利用開始になったこの橋は、全長 3,991m、中央支間 (吊り橋を支えている主塔の間隔) 1,991m。これは、ついこの間まで世界一だった。淡路島に行くときに必ず利用しているわりには、こういったカタログデータみたいな知識ぐらいしかなかったので、今回は橋の袂の舞子浜にある「舞子海上プロムナード」「橋の科学館」の2つの施設を訪ねてみた。

天気が良いと最高に気持ちのいい場所です

 

まずは舞子海上プロムナード。1Fには、明石海峡大橋の概要を説明したパネルがいくつか展示されている。サクッと頭に入れて、8Fの展望ラウンジに上がってみる。

橋を構成している重要な要素がわかりやすく書いてある

 

エレベータで8Fまで上がってきても、ようやく橋の下底ぐらい。そこからの眺めは抜群だ。舞子公園にある孫文記念館も良く見える。また、橋の中の様子め中々面白い。よくこんなものを造ったものだと感心。

抜群の眺望と中々見ることのない景色

 

見学通路の底が一部アクリルボードになっているところがある。写真では高さが全く伝わりにくいのだが、実際は怖さで足がすくむ。

実際はもっと怖い   明石方面の風景

 

橋の主塔のてっぺんに360°見渡せるカメラが設置してあり、そのカメラを操作して神戸側、淡路側と視点を切り替えて見ることが出来る。遊んでばかりで写真を撮るのを忘れてしまった。

ということで、この舞子海上プロムナードでは、明石海峡大橋の大きさ、高さ、雄大さを存分に体験することができた。

舞子海上プロムナードを後にして、すぐ隣の橋の科学館へ

 

次に訪ねたのが、すぐ隣にある「橋の科学館」だ。ここでは、明石海峡大橋の建設に関しての様々な技術が模型やパネルで展示されている。吊り橋の構造はだいたいわかっていたとしても、吊り橋を支えている主塔や、ケーブルの両端を引っ張っているモノ(アンカレイジと呼ばれていることもはじめて知った)が一体どのぐらいの力に耐えれるように作ってあるのかとか、全く想像もできてなかった。

まずは主塔。海上に東京タワーが2つ建っているのと同じようなもの。海の中にその土台を置きに行くわけ。甲子園球場のグラウンドの広さぐらいある。これを考えた人、実行した人、すごいです。

扱うモノもやることもスケールが違う

 

次にアンカレイジ。吊り橋の美しくたわんだケーブルを両端からつなぎとめているもの。これって凄い力で引っ張られるわ。どうやって、その力に耐えてるの? 極太に束ねられたケーブルが末端ではバラされて、その1本1本を巨大なコンクリートにつなぎとめている。

35万トンの巨大なコンクリートの塊の中にも技術が詰まっとる

 

そもそもケーブルが丈夫でないと。舞子と淡路をつないでいるんやからね。でも伸びたり腐食したりするんとちゃう? ケーブルの内部に乾燥した空気を送って腐食を防いでるって。私のようなレベルの人間には、驚きと感心の連続だ。

この極太ケーブルで舞子と淡路がつながっている

 

他にも色々な技術の展示があるのだが、一番わかりやすいのが、館内で上映されている映画を見ることだろう。3Dメガネをかけて、ちょっと立体的に見えるところも面白い。この映画で、主塔やアンカレイジやケーブルの仕組みや中身を説明してくれる。明石海峡大橋を支えている技術のすごさや、保守点検による安全性の確保・維持とかがよくわかる。最初にこの映画を見てから展示物を見ることをお薦めする。

 

最後に、これは私も覚えていることだが、阪神淡路大震災のときにこの橋は建設中だった。主塔とアンカレイジとケーブルだけが吊り下げられている状態のままで、地震の影響をもろに受けたために各所にずれが生じた。

街がブルーシートで覆われているとき橋は建設途中だった

人間の知恵と力と信念を持って、対応をしたところはりっぱです。その当時は、街の復興ですら不安材料でいっぱいだったので。

 

ということで、橋の科学館では、明石海峡大橋を支えている技術を存分に知ることができた。色々わかったあとに、あらためて橋を眺めると、また見方が違ってくるものだ。

 

 

今回は、リアルなすごさと、建設技術という隠れたすごさの両方を楽しめた。

 

いいね。やっぱり神戸が好き。

もっと KOBE ずっと KOBE

ではまた次回をお楽しみに ♣

 

こうべ 笑笑 こばなし

秘密のケンミンショー」を観てて、地域の特色ってユニークなものがいくつもあります。そこに住んでると気が付かないけど、一歩引いてみると「ええっ!」ってこと。

神戸にもある特色という名の面白いことを一緒に笑笑(わらわら)しませんか。

神戸市の小学生だけ?

最近ちょっと知られてきた「神戸ノート」
神戸市の小学生は皆これを使っています。

ノートの表・裏の表紙に神戸の風景の写真がモノトーンで印刷されていて、教科のノートは1・2年生用、3・4年生用、5・6年生用があって、罫線の幅や文字マスのサイズが学年が上がるにつれて小さくなります。
昭和のむかしは学校近くの文房具店に必ずあって、赤帽やハチマキと同様に学校指定の物だとずっと思っていました。
神戸ノートは神戸市長田区にあって、100年を超える歴史ある「株式会社関西ノート」が製造しています。
“戦後間もない頃、これからの世代を担う子供たちに良質な文房具を低価格で提供しようと製作を始めた「神戸ノート」。”(関西ノートのHPより)
う、う、う (涙)
そんなやさしい心遣いから生まれたとは知らず、小学生の私はジャポニカ学習帳にあこがれていました。
だって、神戸ノートは表・裏表紙とも薄い色なのですぐに汚れてしまうのが嫌だった。
※教科書にビニール製のカバーをつけていましたがさすがにノートまではつけていなかったので。

中学生になって、学校の購買部で灰色の真面目そうな大学ノートを使いました。
最初はちょっと大人に近づいたみたいでうれしかったけど、時間割を見て翌日の用意をするときに同じ色のノートだと教科を間違うことがよくあり、教科ごと色が違うことの意味がその時にわかりました。

左 昔ながらの大学ノート 右 パンダやファミリア柄の神戸ノート

最近はファミリア柄のノートやメモタイプのノートも作られています。
これからの時代、ノートの代わりにタブレットを使うようになっても何かの形で神戸ノートのデザインが受け継がれていけばいいなぁと思います。


ソース大好き!

「ソース」というとフランス料理やイタリア料理のお肉や魚料理の味付けに使われるドロッとした液状の味のついたものをイメージますが、神戸ではたいがい茶色と黒を混ぜたような液体またドロッとした液体を指します。


お好み焼きやたこ焼き、コロッケやフライを食べるときに欠かすことができません。
なんと!そのルーツは神戸にあるらしい。
明治時代に国産ソースの基礎を作った安井敬七郎氏の『安井舎蜜工業所』が兵庫区荒田町にありました。(阪神ソースのHPより、会社は現在は東灘区です。)
このお方のおかげで、ソースの種類が豊富な神戸になったかと思うと感謝・感謝!

ソースには、ウスターソース・中濃ソース・濃厚ソースの種類があり、食事によって使い分けます。私はコロッケにたっぷりのウスターソースをつけるのと、お出しで食べるたこ焼きにも中濃ソースをつけるのが好き。そうそう豚まんもソースをつけます。
※どの食べ方も、馴染みのない地域の人にはドン引きされるのでご注意!

ソース売り場の前で
「今日はこってりしたもんが欲しいから、ドロにしよ!」
「お父さんはブラザーやけど、子供たちはバラやわ」
という主婦の会話を耳にします。
私も家のソースを切らすと、「はよ買わな!」とそわそわ。
そういえばちょうど昨日の晩 使い切ったんで、王子公園近くの高架下に「プリンセスソース」を買いに行こっ。 
※写真は、三宮の神戸阪急のひょうごふるさと館。

何よりも優先⁉ コープさんの共同購入

友人と出かける予定を立てるときに希望日を伝えると、
友人:「水曜はコープさんやからあかんわ。」
私:「ほんなら、日を替えよか」
始めて聞くとなんのこっちゃ?と思う、神戸に住んでいる人とだけ通じる省略だらけの会話。

丁寧な会話にすると、
友人:「水曜日はコープこうべ共同購入の配達の日だから出かけられないわ。」
私:「共同購入ならご近所さんと分ける作業があるもんね。日を替えようか。」

「コープさん」とは、日本最古の消費生活協同組合コープこうべ」のこと。
コープに『さん』付けをするあたり、関西人らしい。

「協同購入」というのは、隣近所の3人以上で1グループを作り、週1回の商品配達のこと。お出かけを断るほどの威力を持っているって面白いでしょ。

家の軒先やマンションの入り口でで商品を分け合っていれば、組合員同士だけでなく配送スタッフと情報交換という名のおしゃべりの花が咲きます。
仲間内とはいえ、ほんまの意味で台所事情も筒抜けなのも面白い。

※仕事をする人のための個別に配達もあります。

包装も簡易なところはSDGS
昭和時代は「コープさん」ではなく、「くみあい」って呼んでました。


今回は、笑笑こばなしを書きました。
実は、まだまだあります。わらわら ( ´∀` ) 

いいね やっぱり神戸が好き

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ではまた次回をお楽しみに♦

 

御影散策 〜昔は松の景勝地、今は住みやすい住宅地〜

□”御影”の由来

阪神御影駅近くにある”沢乃井”と呼ばれている泉に神功皇后が姿(御影)を映したことにちなむと伝承されています。そのほかにもいくつかの説があるようです。沢乃井は阪神御影駅の近くの高架下にあります。霊泉といわれ内は薄暗く神秘的な雰囲気を感じます。

清水がこんこんと湧き出す沢乃井 

□御影の松

昔は阪神間の海岸沿いには白砂青松の風景が続いていたようで、御影も松の景勝地だったようです。

  世にあらばまた帰り来む 津の国の御影の松よ 面がはりすな(藤原基俊)

と謳われ、松が美しかったようです。43号線近くの西方寺にはこの古歌を刻んだ古い歌碑があります。この歌に因み、松葉を3本組合せてた図柄は旧御影町の町章になり、今も小学校、中学校、高等学校の学章にベースになっています。

西方寺の御影の松       西国街道の松      旧御影町の町章

御影石

御影石は全国的に知られています。住吉川の上流で良質の花崗岩が採石されました。五助山、重箱山、荒神山(現在の住吉台)などに採石場が広がっていたようです。ここで採れた石材は品質が高く”本御影石”と言われ特別扱いされていました。江戸時代の半ば享保時代に採掘量が最盛期を迎えたようですが、1956年に六甲山が国立公園になり、採掘ができなくなり、本御影石の価値は急騰したようです。

住吉川河口は大きな扇状地になっているため港が出来なかったため、隣の御影浜が利用されて、そこから全国に海運されたので、御影石と呼ばれるようになったようです。また、石屋川流域には石職人が多く集まったとされています。御影石町には1910年ごろまでは数十軒の石屋が残っていたそうです。

住吉川上流の石切場から石切道に沿って石材が運ばれた
昔の浜の防波堤           その先の海を通って御影石が運ばれた

御影石のルーツをたどる 神戸・石屋川との関係とは | M's KOBE - 神戸新聞NEXT

 

御影郷

灘五郷は西郷、御影郷、魚崎郷、西宮郷今津郷の5つの地域からなる日本を代表する酒どころです。御影郷は白鶴、菊正宗、剣菱、福寿、など御影・住吉の酒蔵が含まれます。御影石が最盛期を迎えた享保時代以降(1700年代以降)に灘五郷は大きく発展します。その要因は良質の水(宮水)、住吉川の急流を利用した水車により精米量が飛躍的に増大して量産化でき、船積みの便に恵まれたため樽廻船により江戸へ大量輸送が出来たことがあげられます。江戸までの輸送の間に杉樽で熟成され酒質も向上して江戸での人気は凄まじく、需要の8割を供給したと言われています。

御影郷 出典:パ酒ポート灘五郷2018-2019

羽生結弦が4回訪れた弓弦羽神社(ゆずるはじんじゃ)

羽生結弦は2010年、11年、15年、17年4回参拝しています。1回目はまだ15歳でシニアの試合にデビューしたての頃だったようです。2回目は2011年の夏で、この年の3月11日に東日本大震災を本人が体験して神社の絵馬に「世界のトップになれますように… そして、東北の光となれるように!」と書かれたのが後に見つかったようです。その後、大活躍して14年ソチ五輪で金メダル、18年の平昌五輪では五輪2連覇を達成して願いが叶いました。たくさんの絵馬が奉納されていますが、当時はその6-7割が羽生さんに対する必勝祈願のものでした。

弓弦羽神社

□昭和の匂いを残しつつ新しく生まれ変わって行く御影市場 

大正9年1920年3月に御影中西市場としてスタートし、2020年には100周年を迎えた歴史ある商店街です。昭和10年に現在の場所に移転して「阪神御影市場」と改めて30余店舗から構成されました。今は旨水館という名前で、昔からの老舗と若い人による新しい店が混在して楽しい商店街に生まれ変わろうとしています。

 

新鮮で種類が豊富な花屋さん     昔からの手作り天ぷら屋さん
若い人が経営している八百屋さん    店舗がリニューアルして淡路バーガに
早朝から鶏をさばき新鮮が売り物の鶏肉屋さん      昔からの和菓子屋さん
長田のゴム製品や素材を扱うおしゃれなお店
ランチが評判のレストラン      昭和のままのたこ焼き屋さん

 

いいね。やっぱり神戸が好き。

もっとKOBE ずっとKOBE

ではまた次回をお楽しみに♠️