もっと KOBE ずっと KOBE

NPO法人 Pride of KOBE のメンバーが紹介する「神戸の人、自然、景観、ファッション、食べ物、文化、便利さ、生活」

こうべ笑笑 こばなし4

 永年 神戸にくらしていると特に変わったように思わない事が、他の地域から来た人には「ええっ!」って感じる事があります。

神戸のちょっと変わった笑笑(わらわら)するお話を紹介します。

 

「メロンパン」とちゃうやん!

 みんな大好きメロンパン、私も大好きメロンパン!
アメフトやラグビーのボールのような形に横線が入っていて、パンの中には白あん。
「メロン」を探すが、色も味もメロン要素は見当たらない。


でも子供はそんなことより、おいしければOK。
 少し大きくなって、友達が焼きたての「メロンパン」を買ってきてくれた。
ところがところが、それは「サンライズ」で「メロンパン」ではない。
「ちゃうやん、これっ!」と言っても友達は、これがメロンパンだと言い張る。
外側のクッキーみたいな食感と中の柔らかさが、美味し〜けど ちがう!

整理すると、メロンパンには2種類ある。
1)チキンライスの型状/パンに横線がある/中は白あん/味はほんのり甘い
2)丸く半球状/格子状の線がある/外は硬め中は柔らか/表面に砂糖がかかってる

なんでこうなかったかは、諸説あるみたい。
悩んだこともあっけど、どっちも美味しいからええよね。笑笑

つるこう団地ぃ⁈って

 学生時代、車の免許を持っている友達と六甲山へ車で遊びに行く予定を立てていると、『つるこう団地をまだ山の方に、、、』と⁉という発言。
「つるこう」というと、当時ラジオのパーソナリティーをしていた、笑福亭 鶴光さんのことしか思いつかない。
そんな名前の団地あったかな?と、彼らの見ている地図に目をやると、確かに「鶴甲団地」。


六甲山を「ろっこうさん」と読むなら、鶴甲団地は「つるこうだんち」かぁ。
「つるかぶとだんち」と読むことを伝えてました。笑笑
※鶴甲団地は灘区の北の、眺めのいいところです。
六甲山に車で登るとき、鶴甲団地を通って上ります。バスも走っています。

 これに似た、地名のはなしをもう一つ。須磨区にある「板宿」。


 東京の「新宿」「原宿」などの読み方に慣れていると、「いたじゅく」と読んでしまいます。※実際にそう読んでいる人を見かけたこともあります。
でも神戸では「いたやど」と読むんよね。
 宿場の名残りを感じる「宿」のつく地名は全国にあって、「やど」だけじゃなく「やどり」「いど」と呼ぶこともあります。地名の読み方って面白い。


アサビア~ン、トレビア~ン

 元町駅すぐ南の 創業1952年の老舗珈琲店「エビアン」。
ガイドブックにも載っていて、お店はとっても昭和な感じ。カウンター内では白シャツに黒のネクタイをしてお客さんを待ってくれる。

お店の壁に掛かってる、昔のエビアンのマッチ箱のデザイン


 1杯ずつ丁寧にたててくれるコーヒー、ガラス容器いっぱいの大きめプリン。
お気に入りは、モーニングメニューの『アサビアン』のコンビーフ入りのロールパン。

 

 私のコンビーフ この頃食べてなくて、モーニングに出てくるのってソーセージかベーコンが多くてすごく久しぶり。
はじめて注文したとき、あまりの懐かしさに「アサビア~ン、トレビア~ン」とつい口から出ました。笑笑
 ちゃんと確かめたわけではありませんが、多分「朝」の「エビアン」で『アサビアン』と名付けたのではないかと。
※ちなみに「アサビアン」には、ロールパンセットとトーストセットがあるので、注文するときはお間違いなく。

【エビアンコーヒー】
神戸市中央区元町通1-7-2
■ 営業時間
[平日] 8:30~18:30
[日祝] 9:00~18:00
※モーニングは11時まで。
■ 定休日
毎週水曜日、第1・第3火水曜日(祝日の際は営業)

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ではまた次回をお楽しみに♢

 

「山麓リボンの道」散策〜摩耶山のふもと編〜

夏の間は休止していた「山麓リボンの道」の散策を再開しました。前回の「六甲のやますそ」では御影から神戸大学まで到達しました。今回は「摩耶山のふもと」を歩きました。

山麓リボンの道 摩耶山のふもと (神戸市HPより引用)

神戸大学キャンパスの西端の交差点からスタートです。この辺りは神戸松蔭大学や六甲学院の通学路で多くの学生さんが下校中でした。

阪急六甲から六甲学院、神戸松蔭大学や神戸大学の道は学生でいっぱい
周辺は閑静な住宅地で昔からの大きな家も点在する

少し西に歩くと六甲川に出ます。神戸の洪水の記事で六甲川や仙谷川の氾濫がありましたが、今ではよく整備されて底が階段状になり六甲山からの水が整然とながれています。六甲川の源流は六甲山の記念碑付近のようです。

六甲川

小さな橋を渡り少し西に進むと山手側に「灘の厳嶋(イツクシマ)神社」があります。創設は1880年で、春祭りと秋の「うどん祭り」があるようです。収穫した麦をうどんにして神前にお供えして感謝し、各家庭ではうどんを食べたと伝えられています。春祭りでは篠原北町、本町、南町の氏子を子供神輿、稚児行列が巡回し、宵宮祭ではだんじりが曳行されるようです。

厳嶋神社 境内のだんじり庫 

厳嶋神社のすぐ南に翔龍寺があります。散歩が終わってから調べると、祥龍寺は645年ごろに開基され、平清盛の時代には全盛期であったが、明治初期に廃寺されたようです。それを鈴木商店の鈴木よねさんが私費で再興されたようで、境内には鈴木よねさんの胸像や金子直吉ら鈴木商店の関係者の碑があるようです。知っていれば境内の見学をしたのですが、残念!

翔龍寺と周辺の篠原北町住宅地

さらに西に進み、護国神社を通り過ぎて灘円山公園の方向へ山に向かって歩きます。

灘円山公園は神戸製鋼の保養所の隣の広大な公園です。まさに六甲山の麓にあり眺めも良く家族連れには最高の公園です。

灘円山公園 2024年撮影

今回は円山公園には行かず摩耶ケーブル駅を目指します。山麓の道だけあって山側には六甲山がせまり、海側は広がった神戸の街並みとその先は大阪湾が見えます。

山側は六甲山が迫って、海側は神戸の街並みがよく見える

500mほどの長い坂道に向かいます。なかなかない風景です。夕陽に向かってまっすぐ伸びる長い坂道はどこかノスタルジックで、小説のワンシーンを思い出させます。坂道を上ったところが桜のトンネルの最上部です。桜のトンネルは樹木が老朽化して伐採されているのでまばらになっています。

長い坂道と桜のトンネルの道

摩耶ケーブルは1925年(大正14年)に開業しました。戦災や災害を乗り越え、2025年1月に開業100周年を迎えています。ケーブルは摩耶ケーブル駅から虹の駅、その上は摩耶ロープウェイで虹の駅から星の駅(山頂)へ行けます。摩耶ロープウェイは1955年に開業しました。虹の駅から徒歩5分ほどのところにかつて摩耶観光ホテルがあったようです。今は「マヤカン」とよばれ近代建築の廃墟として人気を集めています。摩耶観光ホテルは1929年~1944年にモダンなリゾート施設として人気を集めたようですが、戦争でケーブルカーが運行休止になり営業を停止したようです。戦後は1961年~1967年の6年間は結婚式場などで賑わったようですが、1967年の台風で甚大な被害を受けてその後閉業に至っています。摩耶山を愛する人たちの尽力で2021年には廃墟でありながら国の有形文化財に指定されました。

摩耶ケーブル駅

摩耶ケーブル駅を通り過ぎれば神戸高校の裏口にたどり着きます。神戸高校の山側の薄暗い小道を通り過ぎて西側正面に出ます。神戸高校の敷地内には昔、東郷平八郎の遺髪を祀った「一誠神社(東郷神社)」があったようです。戦後、神社の建物は本住吉神社の境内に移されたと伝えられいます。摂末社の猿田彦神社がそれだそうです。そんな頃の名残か神戸高校の裏には墓地やお地蔵さんが存在しています。

鬱蒼と茂った森の中の名も無いお地蔵さん、上野道登山道を登って摩耶山へ行けます。

神戸高校の本館は中世の古城を模したロマネスク調建築で、3連アーチの出入口やバルコニー、最上部には「ロンドン塔」と呼ばれている塔屋があります。1938年(昭和13年)に竣工され、2002年に修復されています。神戸建築祭で内部が公開されています。

神戸高校 正面玄関と東側に続く校舎

正面南のグラウンド出入口に立派な門があります。神戸高校のシンボルである鳳から「おおとり門」と名付けられた門で開校当初からあります。戦時中は金属類回収令により鉄扉が供出され、木製だったようですが、1966年に復元されています。その横が名物の「地獄坂」です。この道は阪急の王子公園駅(我々には西灘駅のほうが馴染みがある)へ続きます。

「おおとり門」と「地獄坂」

「摩耶山のふもと」は歴史を感じた散策でした。神戸高校の敷地にあった一誠神社が本住吉神社の猿田彦神社であるとか、摩耶ケーブルの虹の駅の近くの旧摩耶観光ホテルが短い期間であったが賑わったこと、祥龍寺には鈴木商店の鈴木みねさんが再興して胸像が設置されていること、厳嶋神社は篠原には麦畑が広がってその収穫を祝って「うどん祭り」があることなどまちの魅力が深まりました。

次回は「布引のみち」です。お楽しみに。。。

 

いいね。やっぱり神戸が好き。

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ではまた次回をお楽しみに♠️

 

えっへん!神戸自慢(その7)日本初のマラソンの地

時は、日本が近代オリンピックに参加する3年前

1909年(明治42)3月21日11時半過ぎ

日本初のマラソンが

神戸の湊川新開地の川池東からスタートしました。

 

コースは、全長 約32km

(当時はオリンピックでもマラソンの距離が、42,195kmに確定する前だったのでこの距離でも充分マラソン大会として評価される)

新開地川池東➞(新開地を南下して多門通り)元町本通り➞

旧居留地➞磯上通➞敏馬(みぬめ)神社前➞

(江戸時代の浜街道に沿って)大石➞御影➞芦屋➞

(打出の東で旧西国街道に

合流)西宮神社南➞(旧中国街道に入り)

➞出屋敷➞(尼崎の)巽橋➞大和田・稗島(姫島)➞

(新淀川岸を左折)西成大橋東詰 ゴール!

https://kobe-marathon.net/2025/race/information/origin/ より

今の地図で見ると・・・

Google earthより

1⃣ が元町通・旧居留地・磯上通あたり

2⃣ が敏馬神社・御影あたり

3⃣ が西宮神社

4⃣ が大和田・稗島あたり

 

ものすごくアバウトな地図でごめんなさい!

でも、大体の距離が掴めるかな?

 

そして、このマラソンになんと408名が応募!

書類審査を通過したのが144名

次に、体格検査で128名が合格

最後に鳴尾関西競馬場で予選を

勝ち残った20名が参加しました。

  

このマラソンの優勝者には、金メダルと賞金300円!

因みに、今の価値に直すと約600万~900万だそうで、家を建てたり出来る金額だったそうです。そりゃ、応募者が多いはずだわ(笑)

5位までに、賞金や金メダルが用意されています。

個人や企業がスポンサーとして参加していました。

 

優勝したのは、金子長之助 という岡山から参加した27歳の在郷軍人。

https://kobe-marathon.net/2025/race/information/origin/ より

彼は御影付近で、わらじの緒が切れ そのわらじを脱ぎ捨て裸足で走り続けたそうです。そしてそのタイムは、2時間10分54秒!

今の42,195kmで1位は、およそ2時間強のタイムで走っているので、金子氏のタイムは当時としては素晴らしいものだっと思えます。しかも裸足ですから…

2着を5分近くも引き離す、ぶっちぎりの1位だったようです。

もらった賞品の中には、金時計や銀屏風などがあったそうです。

 

そして時は過ぎ、神戸にマラソンが戻ったのは

1981年1月11日 「ポートピア’81」記念の

20kmロードレースからでした。

 

そして、2001年の第22回より「神戸全日本女子ハーフマラソン」となり

2006年から一般男子の部が設けられました。が、大会名には「女子」が入ったままでした。

そして、2011年よりフルマラソンとして吸収され「神戸マラソン」として、今も毎年行われています。

 

https://kobe-marathon.net/2025/runner/course/ より

 

神戸マラソンのスタート地点・神戸市役所前にはこんな碑があります

 

マラソン発祥の神戸には、色々なランニングコースがあります。

 

(元)神戸人がオススメする!神戸ランニングコース5選! | 神戸電子専門学校さん

お勧めの5コースを紹介します。

 

1)布引の滝→神戸電子距離(2km)

 

2)ポートタワー→神戸電子距離(2,5km)

 

3)みなとの森&小野浜公園→神戸電子距離(2,5km)

 

4)ポートアイランド北公園→南公園→神戸空港→神戸電子距離(9,5km)

 

5)海岸線須磨海水浴場→明石海峡大橋→神戸電子距離(17,6km)

 

走るのが楽しい人は、

涼風の吹くスポーツの秋になったら

神戸の街を走ってみませんか?

 

私は沿道で応援する人に徹しますが…(笑)

 

 

いいね。やっぱり神戸が好き。

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ではまた次回をお楽しみに  ♥

 

ゲゲゲの神戸

 

 六甲アイランドにある神戸ファッション美術館で催されている「水木しげる 魂の漫画展」に行ってきた。一般は 1,400円、学生は 700円、高校生以下と神戸市在住の65歳以上は無料ということで、ありがたくフリーパスさせていただきました。結論から言うと、すごいボリュームで見応え十分。時間に余裕をもって行かれることをお勧めする。いつものとおり、作本保護のため撮影は一切許可されていなかったので、展示の内容そのものをここでお伝えすることはできないのが残念。展示の構成や印象に残ったエピソードなどを紹介していきたい。開催期間は 11/29 (日) までなので、行かれる方の参考になればと。

チラシの表裏を掲載しておきます

展示は時系列に7つの章から構成されている。各章のはじまりには「水木しげる 波乱万丈人生紙芝居」と題した2分30秒程度の動画(静止画紙芝居に近い)がある。その紙芝居を見てから展示を見ればさらにわかりやすい。

 

第1章は、生い立ちから 21歳で戦争に行くまで。1922年、水木しげる氏(本名:武良(むら)しげる)は、島根県境港市に生まれ育った。少年天才画家と言われていたぐらい絵が上手だった。展示内容も風景画とか静物画とかがあった。面白いエピソードは近所の「のんのんばあ」(本名:景山フサ)から妖怪の話を聞いていたということ。そこが原点なのかと思った。21歳で戦場に行き、左腕を失ったときはどういう思いだったのだろう。

 

第2章は、復員し、神戸の水木通に住み紙芝居の絵を書くところからはじまる。28歳。ここでの面白いエピソードは水木通の水木荘というアパートのオーナーになっていることから「水木さん」と呼ばれるようになり、ペンネームを水木しげるとしたという話。仕事は紙芝居から貸本漫画へと。子供の頃を思い出した。紙芝居はほとんどすたりかけていた。商店街には貸本屋があって、そこに漫画が並んでいた頃を思い出した。

 

第3章は東京に拠点を移し、紙芝居、貸本漫画、漫画雑誌へと時代とともに変遷しながら「ゲゲゲの鬼太郎」「悪魔くん」「河童の三平」の代表作が生まれるところだ。ここでのTVの影響は大きい。「悪魔くん」は実写化でヒットし、「ゲゲゲの鬼太郎」もTVアニメから知った人も多いのではないだろうか。

ここで面白かったのがスタッフ募集の広告だ。

・すぐやめる人はいらない
・お給料は2万円(下手な人)〜 5万円(上手い人)
 下手な人でも続ければ上手くなります。
・日曜日は休み。徹夜した翌る日も休み。 などなど。

今ならアウトかな? でもスタッフ募集って正直こうだよなと思ってしまった。

 

第4章は、戦争の体験記になる。水木氏の東南アジアの戦地での実体験である代表作のひとつ「総員玉砕せよ!」の制作にまつわる話。この作品は本当に壮絶である。今はさすがにこの頃の思想に戻ることはないと思うが、こういう時代の思想で亡くなっていった人だちが大勢いるということは記憶に留めておいた方がよい。驚いたことは、左腕を失った水木氏が原住民の村でパウロと呼ばれて終戦まで共同生活をしていたことだ。

第5章は、「溢れる好奇心 人物伝」と称し、主に歴史上の人物についての漫画。平賀源内、鴨長明など。

第6章は、その時代を象徴する出来事や文化にフォーカスを当てた短編。

第7章は、地方に残る昔話などから妖怪を描く。水木氏は「妖怪はこの世に千体居る」という「妖怪千体説」を主張している。最後の動画では「好きなことは続けていれば絶対に夢が叶う」と自らの生涯を力強く語っていた。

 

とにかくボリューム満点の内容でした。画像で紹介できないのが誠に残念です。出口のところに唯一のフォトスポットがあったので、そこのショットをトップに掲載しておきます。

出口を出たところに関連グッズ売り場があり、こちらも大変盛況な様子。

関連グッズ売り場には漫画本以外にも色々ありました

関連グッズの類は、めったに買わないのだが「妖怪花合せ」という花札っぽいゲームを買って帰った。

面白い発想だ


神戸の水木通で紙芝居の絵を描きはじめたところから、あの「ゲゲゲの鬼太郎」が生まれたのかと思うと、この花札に描かれている妖怪たちも何だか親しみがわくというもの。

 

この「水木しげる 魂の漫画展」が催されている神戸ファッション美術館は、六甲ライナーのアイランドセンター駅から直通の通路を歩いて2〜3分ぐらいか。なかなか斬新なデザインの建築物だ。

巨大な UFO みたいな外観

ゲゲゲの鬼太郎以外の水木しげる氏をあらためて知ることができてよかった。まさに「魂の漫画展」だった。

 

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ではまた次回をお楽しみに ♣︎

 

神戸の歩き方

 書店で見つけたとき思わず「え~~!」と驚きのあまり声が出てしまった。
20代にかなりお世話になった『地球の歩き方 』。その神戸市版を見つました!

 「地球の歩き方」というのは、昭和時代に人気のあった海外旅行ガイドブックのことで、1979年の創刊以来、約160の国と地域をカバーしてきました。HPやSNSのなかった時代、海外旅行へ行く若者のバイブルのような存在だったんです。

 私もヨーロッパにあこがれて、でもお金がなくてユースホステルに泊まり歩いてドイツを中心に近隣国をバックパッカーで旅をした時にものすごくお世話になりました。

当時の「地球の歩き方 ドイツ」のレーゲンスブルクのページが残っていました。

 

 この時は旅行日数が長いため、30㎏近い重量を担ぎ一眼レフのボディを2台、35ー70のズームレンズ、フィルムはモノクロとリバーサル、トータルの何十㎏になっていたことか。

これはドイツから離れてイタリアのシエナに行ったとき撮った写真


 話が『地球の歩き方』から外れてしまいましたが、当時も海外のガイドブックは他にもありましたが、詳しさが段違いだったので助かったことをよく覚えています。
今ほど情報の入手がすぐにできない時代だったので、掲載している情報が古いことがよくあり『地球のまよい方」なんて悪口を聞いたこともあります。

 私の世代は、「地球の歩き方」というと海外に特化したのガイドブックという認識が強いのですが、進化していて国内のガイドブックも手掛けています。

地域のガイドブックだけではなく、関連シリーズには「御朱印でめぐる 大阪・兵庫の神社」などの御朱印シリーズもあります。
 今年の7月31日は、ルーカスフィルム公認「地球の歩き方 『スター・ウォーズ』」が発売。地球じゃなく、銀河の歩き方がわかる情報や、劇場公開作品に登場する惑星・衛星が網羅されていたり、歴代作品の撮影が行われた世界各国のロケ地の紹介もあります。
もちろん、これまで通り海外の情報を満載した、ガイドブックも発行されています。

この度の「地球の歩き方 神戸市」の発行は、24年ぶりの表紙リニューアルだそうです。
※ちょっと興奮しましたが、これまでも発行されていたってことでです。ハハハ

 

 「神戸の歩き方 神戸市」を開くと、旅行者向けだと思っていましたが、地元民でも知らない事が載っていて、まるで生活便利本です。
 第1章の前に約100ページの、観光・グルメ・スポーツ・文化・癒しの情報。ここまででもうお腹いっぱいと思えるほどの、情報が詰め込まれています。

 そのあと、交通ガイド、神戸市の9つの区のエリアガイド、歴史と文化、グルメ、ショップ、宿泊、旅の準備と技術が7章に構成され、地図の付録もついて384ページの少々ぶ厚めの一冊になっています。
 本の大きさは、A4の半分のA5サイズなので持ち運びは便利ですが、文字の大きさはかなり小さめなのが、玉にキズ。

この連休は、『地球の歩き方 神戸市』を片手に出かけてみようかな!

購入は、書店やAmazonでできます。
※私はセンター街のジュンク堂書店の2階で購入しました。

 

いいね。やっぱり神戸が好き。

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ではまた次回をお楽しみに♦︎

神戸に大雨が降っても大丈夫?

連日、大雨警戒のニュースが報道されています。台風24号は迷走した後、熱帯低気圧から温帯低気圧に代わり、日本列島に湿った空気を送り続けています。そのため、日本列島に線状降水帯を発生させて水害が広がっています。8月にも千葉豪雨があり、北陸、富山でも、9月に入ってからも名古屋で大雨が降り大きな被害が出ました。

阪神間でもいつ大雨になるかわかりません。そこで過去に神戸を襲った三つの水害について調べてみました。

 

 

24時間の降水量

1時間あたりの最高雨量

昭和13年阪神大水害

461.3mm

60.8mm

昭和36年水害

472.1mm

44.7mm

昭和42年水害

319.4mm

75.8mm

 

ちなみに8月の千葉豪雨では24時間の降水量は367mm、1時間あたりの最高雨量は115mmでした。115mm/時間は想像を絶するすさまじい雨だと思います。

 

■昭和13年阪神大水害

本州付近に停滞する梅雨前線の活動が活発になったことで発生したこの大雨は、7月3日から5日までの3日間に集中し、総雨量は神戸市中央区で456mm、住吉(神戸市東灘区)で436mmに達した。特に神戸市では、7月5日の8時から正午までの4時間に166mmもの雨量を観測しており、この集中豪雨をきっかけとして、六甲山地を刻む無数の谷で土石流が発生し、下流の神戸市・芦屋市・西宮市などを襲った。(Yahoo 災害カレンダーより)

以下の写真は神戸市HP(神戸の水害)より引用

(左)白鶴美術館下の被害(住吉村) (右)住吉川橋(住吉村土手より)
(左)泥に埋もれた神戸の住宅。
東灘区本山 (右)大石川の濁流。
上流の六甲川、仙谷川からの激流が都賀川を経て各流域に甚大な被害を与えた。
灘区
(左)土橋駅構内(六甲ケーブル)。今の六甲ケーブル下駅
 (右)そごう百貨店前の三宮交差点を洗う激流。
山肌からなだれ落ちた100万立方メートルの土砂は、神戸の街を壊滅状態に追い込んだ。今は撤去された地下道入り口が写っている。
(左)土砂に埋まった阪急三宮駅。 (右)栄町通に押し寄せた流木。
腰近くまでの水の中から眺めるだけの市民。
(左)腰までの水につかった住宅街。
兵庫区湊川町9丁目付近
(右)加納町付近の浸水状況。

■昭和36年水害

1961年(昭和36年)6月下旬から7月上旬にかけて、死者・行方不明者357人、浸水家屋400,000棟以上の大きな被害をもたらした「昭和36年梅雨前線豪雨」が発生した。
台風や熱帯低気圧に刺激され活発化した梅雨前線の影響で広い範囲で大雨となったもので、特に、長野県の伊那谷を中心とした天竜川流域で大規模な土砂災害が発生し、集落ごと埋没した地域も多くあった。(Yahoo 災害カレンダーより)

 

(左)浸水する深江地区。
東灘区本庄町
 (右)崩壊した都賀川の護岸。
灘区
(左)土砂に埋もれる塩原学園。
葺合区(現・中央区)
 
(右)土砂に埋まる民家。長田区高取山町

■昭和42年水害

 1967年(昭和42年)7月7日から10日にかけて、本州南岸に停滞する梅雨前線と台風7号から変わった温帯低気圧の影響で、西日本を中心に大雨となった。特にこの大雨では都市部で大雨となったことが特徴で、1時間降水量は長崎県佐世保市で125mm、長崎県福江市(現在の五島市)で114mmを観測したほか、広島県呉市や兵庫県神戸市でも70mmを超え、2日間降水量は300mmを超えた。これらの都市は、いずれも市街地の背後に山が迫っていることが特徴で、大雨によって土砂崩れや鉄砲水が相次いで発生した。(Yahoo 災害カレンダーより)

(左)灘区赤坂通(都賀川) 
(右)激しい濁流の川に変わった宇治川商店街。
車も流木とともに押し流され立ち往生。

(左)六甲山系から押し出した鉄砲水に襲われた三宮の繁華街・東門筋。 (右)流されてきた自動車。
流木がうずたかく積もった生田区(現・中央区)宇治川付近。


■六甲山の治水事業

昭和13年阪神大水害以降六甲山の治水事業が行われて今では600基以上の砂防ダムが建設されています。住吉川だけでも71基が建設されています。そう考えると、大きな石がゴロゴロと流されてくるような災害はもう無いと思われます。

その中でも五助ダムは1957年(昭和32年)の完成、高さ30メートル・幅78メートルという巨大な砂防ダムです。1967年(昭和42年)7月の豪雨の際、上流の五助谷で大規模な土石流が発生。一夜にして12万立方メートルもの土砂を受け止め、満水(満砂)になりながらも下流の住吉川流域の市街地を大災害から完全に守り抜いたようです。

一般的な砂防ダムであれば次の災害に備えて土砂を撤去されるようですが、五助ダムの上流側は広大な平地(堆砂敷)となり、そこに川が流れ、年月を経て豊かな植物や木々が定着しました。現在は沼地や小川が流れる自然豊かな「湿地帯の広場」のようになっており、ハイカーや地元住民の憩いの場になっています。その圧倒的な規模と美観、そして戦後の六甲山砂防の歴史を伝える重要な土木構造物として、2014年(平成26年)に国の登録有形文化財に登録されています。

巨大な五助ダムと土砂で満杯になった湿地帯の広場(2024年に撮影)

■河川の改修と水害対策

昭和13年以降、国・県が都賀川、住吉川、生田川、宇治川、新湊川等10河川改修を施行されました。昭和45年以降は市が18河川の小河川改修事業に着手して15河川は整備完了しています。おおむね100年確率(*1)規模の改修です。残りの妙法寺川、櫨谷川、伊川は令和12年に完了予定で、30年確率規模の整備水準を目指しているようです。(神戸市社会資本総合整備計画より)

(*1)「100年確率」は100年に一度の降水量、流量

その他にも、雨水幹線(雨水用下水道)が整備されて、既設の下水道を大きくして処理能力を増やすことが実施されています。ポンプ場は25ヶ所(雨水、下水)で、雨水排除ポンプ場は三宮南地区に3ヶ所、東川崎町に整備されています。

 

■神戸の降水量の変化

異常気象が続いて日本全土で線状降水帯が頻発していますが、神戸はどうなのかと思い、気象庁のデータから神戸の1時間の雨量が50mmを超えた年間日数をプロットしてみました。グラフは左から1898年から2025年のデータです。これを見ると増えているようにも見えますが、年に13日(2018年)を除くとほとんど変わっていないとも言えます。そうだとして、一方で水害対策が着実に進んでいることを考えると、心配に及ばないかもしれません。しかし六甲山系は脆い地質で崖崩れは発生します。油断は大敵、備へは必要です。

 

神戸の1898年から2025年の1時間雨量が50mm以上の年間日数

いいね。やっぱり神戸が好き。

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ではまた次回をお楽しみに♠️

 

神戸にまつわる本たち(その4)

 

 前回の神戸にまつわる本たち(その3)では、映画や音楽や書店など、文化を中心に紹介した。今回は主に「生活」を中心に紹介しようかと思う。

 

■ 神戸港 昭和の記憶 仕事×人×街  森 隆行

 


 父が勤めていた船具商の会社が元町の栄町通りにあった。子供の頃、よく遊びに行ったので、昭和30年代〜40年代の神戸港界隈の雰囲気は手に取るようにわかる。港特有の仕事やそれに携わる人たちの様子がとてもリアルに描かれている。

 船が神戸港に入ってくると色んな人や機能が動き出す。航海士や船員だけではなく、誘導する水先人やタグボート、その人たちに正確な情報を伝える神戸ポートラジオ、着岸するときに船から投げられるロープを受け取るラインマンなど。皆それぞれに責任や危険を背負いながら働いている。

タグボートの活躍風景

 また、寄港した船に船舶用の食糧品、日用品、雑貨などを調達する「シップチャンドラー」という仕事もあった。船員たちが立ち寄る外国人バーの話など、昔の神戸港界隈がいきいきと描かれている。お気に入りの一冊である。
2014年11月発行。

外国人バーの様子

 

■ ごろごろ、神戸 平民金子



 ブログの読者の方から薦められて読んだ本である。ごろごろというのはベビーカーをごろごろ押しながらという意味である。お父さんが 2016年~2019年の神戸の街をベビーカーをごろごろ押しながら書かれたエッセイで、神戸での生活の景色が目の前に浮かび上がるような内容だ。神戸を紹介する一般の本には書かれていないようなこともいっぱいあって、ローカル色満載だ。また湊川隧道のような歴史的にも有名な場所についても、他の本とは一味違う内容で何とも面白い。ヴィーナスブリッジのあたりも笑える。

ごろごろベビーカー

坂バス

 生活感満載の街歩きの中に時々子育ての顔が見える。「早く大きくなってくれ」から「もうしばらくこのままでも」と変化するあたりは、身に染みてわかる。3年分のエッセイを盛り込んだ厚みのある本だが、一気に読めてしまう。この本を薦めてくださった読者には感謝したい。2019年12月発行。

 

 

■ 神戸と居留地 多文化共生都市の原像  神戸外国人居留地研究会



 神戸外国人居留地研究会の編集だけあって、居留地のことを少し深く知りたいと思ったら、まずはこの一冊というところか。居留地を中心に発展してきた神戸の産業、建築、食文化などが記されている。人や運営組織についても触れられている。外国人居留地という普通とは違う文化圏がうまく軌道にのって街の発展につながっていくためには「人」と「組織」なのだろう。

 各章は、参考文献も明記されいてる論文調の固い感じではあるが、読みにくさはない。興味のあるところだけを読むのも良いだろう。ところどころにコラムがあり、エピソードが挟まれている。中でも「トアロードの由来」は、身近なことなので気になった。
2005年4月発行。

 

火災で焼失してしまった
トアホテル(右下)

トアロードの由来

 


■ 神戸トアロード物語 -その名の謎に挑む-  弓倉 恒男



 「神戸と居留地」のコラムで紹介されていた「トアロードの由来」について書かれた本である。50ページぐらいの薄い本だが、中身は濃い。なぜ「トアロード」と呼ばれるようになったか。神戸原住民の私は当たり前のように「トアロード」を使っており、その名前の由来など真剣に考えたことなどなかった。ホテル説、英語説、ドイツ語説、漢字説、鳥居説など、諸説ある中で独自に検証をしてきたところが、郷土史や論文調ではなく物語になっているのが面白い。トアホテルという立派なホテルが今のトアロードの北端にあったという事実も知らなかった。

 旧い資料の掲載も興味深いし、写真家の中山岩太氏の風景写真を掲載しているところも惹かれるものがある。発行部数も少なく、中古でも入手困難な本だが、図書館では読むことはできる。神戸再発見としては、もっとたくさんの人に読んでもらえるようにできないかと考えているところ。
1998年11月発行。

トアロードの看板
(今は存在しないものもある)


神戸にまつわる本は、まだまだあるだろうから、これからも読み溜まったところで不定期に紹介していこうと思う。


いいね やっぱり神戸が好き
もっと KOBE ずっと KOBE
ではまた次回をお楽しみに ♣︎

 

神戸で描く 洋画家の小磯さん

 酷暑と言われる今年の夏、涼しくならないかなぁと思いつつ元町の古書店「清泉堂」へぶらりと出かけて見つけたサンデー毎日、なんと表紙の絵は昭和を代表する洋画家 小磯良平氏によるものではありませんか! 

 親しみやすい女性像を中心に、西洋絵画の伝統の中に市民的でモダンな感覚と気品あふれる画風を完成した画家、小磯さんについてお話しします。

サンデー毎日 創刊30年記念特別号 昭和24(1949)年5月

 小磯さんは1903(明治36)年、旧三田九鬼藩の旧家で、貿易に携わっていた岸上家の8人兄弟姉妹の次男として、現在の神戸市中央区の中山手通7丁目に生まれました。幼少期から絵を黙々と描いていたといわれています。
その後、現在の 兵庫高校に進学し、生涯の親友となった竹中郁と出会います。のちに神戸を代表するモダニスト詩人となる竹中氏の影響もあり、小磯さんの心の眼はヨーロッパに向けて開かれました。

 1922(大正11)年に現在の東京藝術大学の西洋画科に入学し、猪熊弦一郎・岡田謙三・荻須高徳ら優秀な同級生と画架を並べ画業を積みます。1925(大正14)年の帝展に入選し、翌年には『T嬢の像』が特選に輝きます。23歳の画学生が描いたとは思えない完成度の高さを誇るこの作品で、小磯さんは画壇に鮮烈なデビューを果たしたのです。

1927(昭和2)年、『自画像』と竹中郁氏をモデルにした『彼の休息』の2作品が98点という最高得点をとり、首席で卒業します。翌年、小磯さんは念願であったフランス留学に出発し、竹中氏とともに2年間ヨーロッパを遊学しました。

 

美術展のパンフレットより「彼の休息」

 帰国後は、結婚や松陰女子学院の講師、お子さんの誕生、個展の開催など画家としての人生を歩んでいましたが、1938(昭和13)年に従軍画家として上海へ、1942(昭和17)年藤田嗣治らとジャワ島へ赴いています。
白黒写真しかなかった時代に、色彩のある絵画はどれほど強烈に人々の心に影響を与えたのか。兵士でも苦しい戦争状況を、直視しながら描くということがどういうことだったのか。気品ある婦人の絵からは小磯さんが従軍画家をしていたことが、想像できません。


【東京国立近代美術館収蔵の作品】
・「娘子関(ジョウシカン)を征く」(1941年)
・日緬条約調印図(1944年)
・カンパル攻略(倉田中尉の奮戦)(1944年)
・カリジャティ会見図 (1942年)
・ビルマ独立式典図 (1944年)

【兵庫県立美術館】
・素描 よじのぼる兵、兵隊二人、コートの兵隊、兵(かまえる)、兵隊(ねらい)、兵(休息)、兵(ねらう)、兵(うしろ向き)、兵(休む)、兵(手榴弾を投げる)、兵(草むらにて)他多数(1941)
が残されている。
※これらはインターネットからも閲覧できます。

 1945(昭和20)年の終戦の年の6月神戸を何度か襲ったB29は、工場がある臨海部だけでなく市街地にも投下され、神戸市中央区山本通にあった小磯さんのアトリエも失われました。このアトリエには異人館を多数描いた画家の小松益喜氏も立ち寄り、画材を置かせてもらっていたというエピソードがあります。

この地は後に神戸バプテスト教会に譲られ、祈りの場として今も人々を集めています。


 戦後の昭和24年には、住吉に新たなアトリエで精力的に作品を描き、優れた素描力で、欧州絵画の古典的な技法を日本の洋画に根付かせる努力を惜しみなく続け、独自の画境を開いていきました。
教えることにも熱心に取り組み、近隣の学校だけでなく母校の東京芸術大学で教鞭をとり、画学生たちの若い感性を大切にした指導で日本の洋画界に貢献します。
 小磯さんの功績に輝かしい賞がいくつも贈られるほど素晴らしい方なのですが、私をはじめ多くの人が「小磯さん」と気安くさん付けで呼んでしまうのは、生活のなかで幾つもの小磯作品に出合えたからなのかもしれません。

 うれしいことに、今もなお小磯さんを感じることができる場所があるんです。
それは六甲アイランドにある、「小磯記念美術館」。館内の中庭に住吉のアトリエが移築されていてその中にはいることができます。

アトリエらしい2階の高さまである大きな窓

左:アトリエを背後に若き日  右:アトリエ内で

 


館内には、展示室には多数の作品があり、小磯さんの世界観に浸ることができます。

 

神戸市立小磯記念美術館
〒658-0032
神戸市東灘区向洋町中5丁目7(六甲アイランド公園内)
六甲ライナーの「アイランド北口」(小磯記念美術館前)駅下車
※次の駅にも美術館があるので、お間違えないように。

いいね やっぱり神戸が好き

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ではまた次回をお楽しみに♦

 

エッヘン!神戸自慢(その6) ☆ 「長田のケミカルシューズ」

エッヘン!神戸自慢 ☆ 神戸発祥のファッション(その6)

ケミカルシューズ❣

写真は 神戸市長田区:靴のまち より

ケミカルシューズとは、戦後の物資不足でゴムや皮の代替品として、塩化ビニールやポリウレタンなどの合成樹脂を靴の甲につかった靴のことで、耐水性があり、汚れ落ちがよく軽量なのが特徴です。

 

ケミカルシューズ発祥は、1952年頃の神戸の長田!

長田という土地は、明治末から大正期にかけてゴム履物の一大産地でした。神戸港の開港以来生ゴムの輸入が盛んで、自転車のタイヤ・チューブ製造からゴム靴へと発展していました。*1)

 

ところが戦後の物資不足で、代替素材への切り替えが必要となりそれを素早く行いました。それが出来たのは、長田には大手メーカーが少なく小規模工場が多かったので、試作や転換を素早く行うことが出来ました。そのせいで、PVC(ポリ塩化ビニール)という新素材をすぐに靴に応用できました。

また、港町ゆえに合成樹脂や接着剤などの新素材も手に入りやすいという利点がありました。

私の子どものころは、近所の人がこぞって靴の底張りの内職をしていて、その家の前を通るとゴムと接着剤の匂いがしていたのを思い出します。

 

1971年には、年間4000万足・246億円を輸出という黄金期を迎えています。

「京の着倒れ・大阪の食い倒れ・神戸の履き倒れ」の語源にもなりました。

そして、神戸は「靴のまち」として全国的に知られるようになります。

 

ところが、1970年のドルショック・オイルショックで輸出減退。1995年の阪神淡路大震災で壊滅的な被害を受け、2000年以降は海外に生産シフトを切り替え、国内市場は縮小していきました。

 

今は「ケミカルシューズ」は死語になりつつありますが、代わりに「神戸シューズ」というブランドへと再構築が進んでいます。*2)

神戸発祥の靴文化が、ふたたび「神戸シューズ」として黄金期が迎えられるように応援したいです。

 

「靴のまち長田」のシンボルとなる拠点施設シューズプラザ(長田区細田町7‐1‐9)がありましたが、残念なことに2017年に解散となってしまいました。ですが、定期的に「KOBEくつマルシェ」などのイベントがここで行われています。

 

私も、イベントのバーゲンに行って靴3足まとめ買いしてきたこともあります。

お得感満載でしたよ。人込みも凄かったですが…

 

女性のファッションに欠かせない靴文化の発展に寄与した「ケミカルシューズ」は、婦人靴市場を大きく変えたといわれます。

神戸自慢☆エッヘン!(*^^)v

 

エッヘン!神戸自慢 ☆ 神戸発祥のファッション(その3)パーマネント - もっと KOBE ずっと KOBE

エッヘン!神戸自慢☆神戸発祥のスポーツ(その2)「ゴルフ」 - もっと KOBE ずっと KOBE

エッヘン!神戸自慢 ☆ 神戸発祥のファッション(その1・神戸洋服)「神戸洋服」 - もっと KOBE ずっと KOBE

 

*1)日本シューズ産業協同組合

*2)兵庫県/ケミカルシューズ

 

 

いいね。やっぱり神戸が好き。

もっと KOBE ずっと KOBE

次回をお楽しみに♥

 

 

今年も夏の風物詩を楽しむ

■住吉川で水遊び

我がまちの夏の風物詩としては住吉川での水遊びがありです。子供たちにとって夏の楽しみですのひとつです。

遊歩道に整備されたのが昭和49年(1974年)です。渦が森住宅地を切り開いて海岸線を埋立るための土を運ぶダンプ道が遊歩道になりました。その後、生活水の流入をなくして川の水がきれいになり、子供達が水遊びをするようになりました。遊歩道は7月から9月にかけては浮き袋を持った子供達でいっぱいです。

国道2号線の下あたりは人気のある場所です
住吉川絵画コンクールに応募された水遊びの様子を描いた小学生の絵

沢登りを思わせる水遊びも楽しそう

白鶴美術館付近の中流の様子。六甲山から流れてくる豊富な水が有難い。

 

■住吉川の生き物

大人も一緒になって生き物探しをしているのもよく見かけます。「ガサガサ」と呼ばれて足で水中の生物を追い出してたも網で捕まえる遊びです。魚はオイカワやカワムツ、サワガニなどきれいな川に住む魚が何種類も観察されています。数年前には魚道も整備されてアユもいます。魚だけではなく水中生物もたくさんいます。上流では6月には蛍の鑑賞ができます。すぐ横に灘校があり生物研究部による生き物の調査も行われ、上流から下流にかけて行われ多種多様な生物が観察され報告されています。経年変化を観察することも大事で灘校だけでなくいろんな学校でも観察されています。アオサギや鴨もよく見かけます。

網で水中生物を探す「ガサガサ」

住吉川の生き物(JR付近の説明看板より)

魚道を作ってアユが遡上しやすい環境にしている。

■「ひがしなだカルタ」と住吉川

「ひがしなだカルタ」(2020年に東灘区政70年記念に生まれました。東灘区内の小学4年生から6年生の子どもたちに考えてもらったようです。)には44枚のうち4枚が住吉川に関わるものです。子供達にとって故郷のいい思い出になっていくと思います。

 ・るんるんるんるん今日は住吉川に行く日だよ

 ・外に出て住吉川を歩こうよ

 ・ランニング住吉川沿いうってつけ

 ・町のじまんの清流の道

ひがしなだカルタ

■地元の盆踊り。

神戸市中央区の盆踊りは「こうべ港の盆踊り」と改名してメリケンパークで大規模に実施されます(8/15)。垂水区では郷土の伝統芸能として舞子音頭、垂水音頭、塩屋音頭が披露されているようです。東灘区では8月に10ヶ所以上で盆踊りが実施されています。地元の盆踊りでは自治会が焼きそばやかき氷などの屋台や景品がたくさんもらえるゲームコーナを出店します。数百円もあれば子供たちは十分に楽しめ、学校の友達や近所の友達と一緒に最高に楽しい時間を過ごすことができます。

地元のご婦人方が手本になり老若男女が盆踊りを楽しみます。
忙しそうなヨーヨー釣りの裏作業、ゲームではいろんな景品がもらえます。
かき氷と輪投げ

スーパーボールすくいに夢中になる子供たち

その他にも水風船大会、花火大会など趣向を凝らしたイベントや昔からのラジオ体操、地蔵盆などが開催されます。

ビチャビチャになって水風船を投げ合う子供たち
花火で遊んだの最後はナイヤガラの滝(左)
地蔵盆ではお参りしてくれた子供たちにお菓子が配られます(右)

 

■豊かな地域社会

一般的に地域社会でのコミュニティーの希薄化が課題とされていますが、子供たちは地元の楽しみを知っています。その子供たちを接点にして親御さんたちやその周りの大人たちも継続的な関係性を深め、それぞれの役割や出番を作ることで、 「ありがとう」「助かった」と言い合える地域社会を築いていけると思います。神戸にはそんな文化がまだ残っていると感じています。

 

いいね。やっぱり神戸が好き。

もっとKOBE ずっとKOBE

ではまた次回をお楽しみに♠️

 

エッヘン!神戸自慢(その5) ☆ 「ソース文化」

ソース文化は、日本独特のモノ。

特に関西の粉モン文化(お好み焼き・焼きそば)に、ソースは欠かせないものです。

そのソース文化を、作った地が「神戸}だったことを私は知りませんでした💦

 

いつ、だれが、どのようにして作ったのかを調べてみました。

 

1885年(明治18)安井敬七郎 が作りました。

http://www.hanshinsauce.jp/technology.html より

敬七郎は、仙台藩お抱えの藩医 安井家の13代目で、仙台藩主が設立した医学を中心としたあらゆる学問を学べる学校「養賢堂」に学び、長じて東京でドイツ工学博士ワークネル教授に師事し工業化学も学んだという、賢い人でした。

 

その教授とともに神戸で食事をしたときに

「神戸にはおいしい肉があるのに、どうして日本には美味しいソースがないのだろう」と思ってしまったのです。(当時は、輸入物のソースを使っていました。)

そう思ってしまった敬七郎が、ソースづくりを始めたきっかけだと伝えられています。

医学や工業化学まで学んだとっても賢い人だったのに、美食家だったのかしら?美味しいものへのこだわりが、ソースづくりへと彼を動かしたようです。

 

彼は、明治18年に初めて国産筆記用インキを製造した「丸善」に入社しました。この「丸善」ではウスターソースの輸入販売が行われていました。そして茨城の上菱醤油(鳩崎醤油)の関口八兵衛が製造販売した国産初のウスターソース「鳩ソース」の発明人として安井敬七郎はかかわりました。

 

はじめは輸入ソースをベースに、日本人の口に合うよう研究を重ねて作り上げたようです。が、日本家庭になじみの薄い洋食のソースなんて買い手が見つからず、とても苦労したようです。最初は薬屋で売ってもらったとか・・・

 

でも彼は諦めないのですよね。1892年(明治25)海外視察団に参加した敬七郎は、イギリスの世界最古のソースメーカー「リー&ペリン」社で、ソースづくりの指導を受けて帰国。1896年(明治29)神戸市兵庫区荒田町に「日の出ソース・安井舎蜜工業所」を造り、本格的なソース工場として国産ソースの基礎を造りました。

http://www.hanshinsauce.jp/technology.html より

 

今は東灘区で「阪神ソース」として営業されています



そしてついに、1900年(明治33)輸入ウスターソースと自家製ソースをブレンドした「日の出ソース」を発売!

1910年(明治43)*明治屋で特約販売開始

(*明治屋は日本の食文化を作った老舗輸入食品商社)

1918年(大正7)宮内省大膳寮から、明治屋を通して下命を受けた

 

ここで作られていたソースは「ウスターソース系」でした。

ソースは、粘度により3種類に分けられています。

 

【ウスターソース】 サラサラしていて、辛味・酸味が強い

【中濃ソース】 ウスターソースと濃厚ソースの中間で、甘みとスパイスのバランス系

【濃厚ソース(とんかつソース)】とろみが強く甘め

 

 

1948年(昭和23)*オリバーソースが世界初の濃厚ソース(とんかつソース)を開発

*オリバーソース 1923年(大正12)神戸に「道満調味料研究所」としてスタート

この時の工場は、神戸市兵庫区松本通3丁目

https://www.oliversauce.com/company/ より

 馴染み深いとんかつソースが、神戸発祥の世界初だとは感動!

 

さらに神戸のソース文化は発展していきます!

それは「どろソース」

 

どろソースは、ウスターソースを長期熟成させた際に沈殿したものを抽出した、濃厚ソースのことです。

特徴は

・とろみが強い

・辛味・うまみが凝縮

・一般的な濃厚ソースよりも重い

・お好み焼き・たこ焼きのプロ向け

 

世界的に見ても、沈殿物を主成分にしたソースはほぼ存在しません!

このソースは、お好み焼き屋さんが店で使うウスターソースを樽で保存していて、そこに泥状の沈殿物が「旨い!」と気づき、店で使い始めたのがきっかけで、自然発生したソースです。

神戸独自の発明品です。(`・∀・´)エッヘン!!

 

そしてこの「どろソース」は、オリバーソースが

1930年(昭和5)飲食店向けに沈殿物を分け始める

1993年(平成5)一般向けに「どろソース」として商品化して、神戸の味として全国に広まりました。

 

また、今は神戸ではないが、かつて神戸でソースを作っていたイカリソースも、神戸のソース文化には欠かせません。

 

「阪神ソース」「オリバーソース」「イカリソース」は、神戸のソース文化の三本柱となっています。

「阪神ソース」は、神戸で国産ソース産業を開始させ

「オリバーソース」は世界初の濃厚ソース(どろソース)を生み出し

「イカリソース」は家庭用ソースとして、ソースを全国に広げました。

 

「阪神ソース」「オリバーソース」は飲食店相手の販路だったものを、「イカリソース」は一般家庭へとソースを広めていき、それぞれの役割りで全国へと神戸のソース文化を広めていきました。

 

日の出ソースが作った当初のソースが、今も同じ作り方で阪神ソースで作られています。

 その名も「敬七郎ソース」

 

美味しい神戸牛があったから、神戸でソースの文化が花開いたのでしょうね。

なんだか今夜は、お好み焼きが食べたくなってきたわ(笑)

 

 

いいね。やっぱり神戸が好き。

もっと KOBE ずっと KOBE.

ではまた次回をお楽しみに ♥

 

さようなら大倉山の文化の象徴

 熊本の震度7の地震のニュースには驚いた。神戸元町のビルの7階に居ましたが、「めまいかな?」と思うようなゆっくりとした揺れを感じた。震度7は阪神淡路大震災がくっきりと思い出される。現地はかなり強い揺れと被害だったと思います。被災者の方々には心からお見舞い申し上げます。

 

さて、今回は 2028年3月に閉館が決まっている「神戸文化ホール」について書こうと思う。


神戸文化ホールは 1973年10月1日にオープンした。地下鉄大倉山駅降りてすぐ。高速神戸駅からも徒歩5分ぐらいのところにある。

南側から見たホール全景

高村智恵子さんの「あじさい」の巨大壁画も有名

 

中学生の頃、大倉山にこんなりっぱなホールが出来たことに驚いた。すぐ北に大倉山公園と中央図書館、道路を挟んで南に中央体育館と湊川神社、大倉山周辺の文化レベルが一気に上がったと嬉しかったものだ。

文化ホールの中庭にある掲示板

 

大ホール(2043席)、中ホール(904席)という構成。実は小ホール(450席)というのもあった。但し、小ホールはシーガルホールと呼ばれ、神戸ハーバーランドに独立してあったので、大倉山とは別の場所。小ホール(シーガルホール)は 2005年3月末で閉館している。

正面の階段を上ったところが大ホール
向かって左が中ホール

 

ホールだけでなく、周辺の庭もよい。大倉山図書館に通っている人も、通勤通学の人たちもこの文化ホールの庭を通って行くだろう。

高低差を上手に活かした造り
やっぱり噴水がいい

 

この神戸文化ホールも築50年以上が経ち、建物全体が老朽化している。2018年には大ホールの天上ボードが落下した事故もあった。
2028年6月頃に三宮へ移転する予定だ。新しい名称はネーミングライツパートナー企業の募集より「シスメックス神戸文化ホール」になるらしい。

屋上庭園やカフェスペースもあるみたいだ

 

大ホールは 1800席ほどでほぼ同スケールで移転が決定しているが、中ホールは700席程度で三宮再開発工事の第2期エリアに移転の予定と言われているが、第2期エリアがそもそも計画が決定されているわけでは無いので中ホールはちょっと不安。小ホールは BE KOBE スタジオとして 240席ぐらいで実現されるかもしれない。
大ホール、中ホール、それぞれ役割はあったと思われるので、継承してほしいものだ。
中ホールが完成するのは、計画でもずいぶんあとになりそうなので、中ホールをメインに使ってきた劇団とかは、中ホールの継続利用を申し出ているようだ。

ホール近所の喫茶店に置いてあったリーフレット
中ホールの果たしてきた役割が書かれている

 

そもそも神戸文化ホールの位置づけは、大物アーティストの公演とかではなく、市民や一般の人のための場であったと思う。

移転後もこういったイベントは続けてほしい

 

個人的には STUDENT JAZZ FESTIVAL が一番印象に残っている。中学生、高校生のビッグバンド演奏が熱い。優勝校の表彰以外にバークリー賞というのがあり、受賞者はバークリー音楽学院にスクーリングに行ける。そこからプロになった人もいる。

大人顔負けの演奏ですぞ

 

冒頭にも書いたが、現在の大倉山の文化ホールは2028年3月末で閉館は決定している。
跡地は予定が決まっていない。

大型商業施設や文化施設の多くが三宮に集中する傾向にある。神戸文化ホールもその流れに乗るのか。大倉山が寂しくなるなぁと思うのは私だけか。神戸文化ホールは三宮に移転しても、その本質を忘れないで活動を続けてほしいと思う。

 

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ではまた次回をお楽しみに ♣︎

 

神戸の海と山がもたらす真珠

暑中お見舞い申し上げます。

 このところ、体温並みに気温が高く夜になっても涼しくならずに早くも「夏バテ」気味です。そこでちょっと気持ちだけでも「涼」を感じてもらえるようなお話を探してみました。

冠婚葬祭の女性の首もとに、控えめに輝く「真珠」のネックレス。

 

 神戸の海で真珠を養殖しているわけではないのですが、世界有数の真珠加工・集積地となり、「真珠の街・神戸」と言われる理由が街を歩いていると、港町ならではの歴史、六甲山の光、そして職人たちの手仕事が見えてきます。

神戸と真珠の歴史

 神戸の真珠産業の歴史は、昭和初期の1928年に真円真珠の特許が公開され、各地で真珠養殖が広がってからだとされています。

当時、真珠は海外へ輸出される高価な宝飾品でした。そこで重要になったのが、海外とつながる国際貿易港を持つ神戸です。三重県、四国、九州などの養殖地から集まった真珠は、神戸で選別・加工され、港から世界へ送り出されていきました。

 神戸港が開かれて以来、外国商社や貿易商、職人が集まった神戸には、海外の市場を意識したものづくりの感覚が根づいていて、真珠もまた素材として集まるだけでなく、穴あけ、研磨、調色、連組みなどの細かな工程を経て、世界に通用するジュエリーへと仕立てられていきました。

2023年に70年の歴史を閉じたの「日本真珠会館」(日本真珠輸出協会)

神戸に真珠会社が集まったのは

 神戸が真珠の街になった理由は、国際港として輸出に強かったこと。次に、真珠の養殖地に比較的近く、原珠を集めやすかったこと。そしてもうひとつは、「光」です。

 真珠の色やテリを見分けるには、直射日光ではなく、安定したやわらかな光が必要です。神戸では六甲山に反射した北側からの太陽の光が、真珠の選別や加工に適していたといわれます。

 特に北野周辺では、こうした光を活かして真珠を扱う会社や職人が集まりました。 子供のころの記憶ですが朝、学校へいくとき坂道を下りながら目に入る建物の北向きの窓に何人か並んで、熱心に机に向かい作業している光景を目にしたことがありました。きっと真珠の色や光沢の選別をしていたのかもしれません。

 

 現在の神戸の真珠産業は、かつてのように「作れば海外へ売れる」時代ではありません。アコヤ真珠の生産量減少、気候変動、担い手不足、海外加工との競争など、いくつもの課題をかかえています。

 それでも神戸には今も多くの真珠加工事業者が集まり、選別、穴あけ、調色、連組みといった高度な技術が受け継がれています。神戸は真珠の産地ではありませんが、世界から真珠が集まり、世界へ送り出される“真珠の交差点”であり続けています。

 もうひとつ忘れられないのが、神戸のインド人社会との関わりです。かつて神戸では「インド人で成功した人は、繊維か真珠」と語られるほど、真珠貿易はインド系商人にとって重要な仕事でした。北野の街を歩くと、モスクやジャイナ教寺院、インド系の真珠会社の存在から、神戸が単なる観光都市ではなく、国際商人たちが生活をしていたことを物語っています。

いいね やっぱり神戸が好き

もっとKOBE ずっとKOBE

ではまた次回をお楽しみに♢

 

「山麓リボンの道」散策〜六甲のやますそ編〜

「山麓リボンの道」とは六甲山系のふもと、海と山が近い神戸のまちをリボンのように東西につなぐ全長45kmの散策路です。12区間に分かれており六甲山麓の自然と街並みや景観を楽しめるようにルートマップが整備されています。

神戸市サイト

www.city.kobe.lg.jp

 

今回は第二回目として「六甲のやますそ」を歩きました。

六甲のやますそ 白鶴美術館〜神戸大学(神戸市HP「山麓リボンの道」より引用)

 

■白鶴美術館

「本山のみち編」(前回)の甲南大学から西の方向に歩いていくと住吉川にたどり着き、川沿いに山側へ上がっていくと白鶴美術館に着きます。白鶴美術館は1934年に白鶴酒造の7代目嘉納治平衛氏により開設され、当時から古美術品500点を所蔵していました。建物は阪神モダニズムの代表的な建築です。

poko2023.hatenablog.com

住吉川から白鶴美術館を望む
(左)道沿いのインド領事館、(右)白鶴美術館前の交差点

↓

白鶴美術館から海側に50mほど下がったところには旧乾邸があります。瓦を積み上げたような塀が独特です。旧乾邸も阪神間モダニズムの代表的な建物です。建物の山側を歩いて突き当たりに小さな若宮八幡神社があります。地域の人たちにより綺麗に管理されています。

旧乾邸と北側の塀

綺麗に管理されている若宮八幡宮

↓

若宮八幡宮を出て、まっすぐの坂道の先に大阪湾を眺めることができます。10年ほど前に阪神御影に高層マンションができてからは眺めが変わりました。

坂道の先に見える高層マンションが大阪湾の眺めを妨げているのが残念

↓

少し西へ進むと山の斜面に作られたオシャレなマンションや数年前に開発された分譲地に新しい住宅があります。ここには2011年に解体されたウォーリズの美しい住宅(小寺邸)がありました。解体に至った経緯はわかりませんが残念です。

今の住宅街(左)と開発以前の小寺邸(右)

小寺邸の写真は「ウォーリズを訪ねて」より引用

gipsymania.exblog.jp

↓

■甲南医療センター

鴨子ヶ原へ行くバス道を登って甲南医療センター(旧甲南病院)の前を通過しました。甲南病院は1934年に平生釟三郎により「病人ノタメノ病院タラン」の理念で設立されました。当時の建物は戦災で一部焼失したものの阪神間モダニズムの立派な建物で80年以上の間使用されてきました。保存を望む声も多かったようですが、病院の機能をさらに充実させるべく、2021年に甲南医療センターへ改名して建物も新しくなりました。今も平生釟三郎氏の理念が引き継がれて地域の中核医療を担っています。

甲南医療センターの入口とそこからの眺め
玄関と旧甲南病院を思い出させるモニュメント

今の甲南医療センター(左)とかつての甲南病院(右)

旧甲南病院の写真は「近代建築Whach」より引用

hardcandy.exblog.jp

↓

■知恵地蔵

さらに山側へ急な坂道を進んで行きます。鴨子ヶ原のメイン道路から離れて北西の道を進みます。住宅地を少し歩くと「知恵地蔵」というお地蔵さんとその横には大きな石灯篭があります。調べて見ましたが詳細はわかりませんでした。鴨子ヶ原公園の一角で西側の新田川により削られた崖地と住宅地の間の細長い公園です。

石灯籠には鹿が浮き彫りされており立派なものです。

↓

細い通路を通り新田川へ降りていきます。降りたところは「大仏砂防ダム」の堰堤の上にかかってる小さな橋に出ます。橋の下は親水公園になっており、地元の人たちで育てている花壇が綺麗です。なぜ「大仏」なのかと思ったので調べると昔の地名の「大仏ケ平」からきていると思われるようです。

ブログ「日本1000公園」より

3921/1000 大仏砂防ダムの親水広場(神戸市東灘区)-日本1000公園

細い通路を降りて行き、小さな橋を通って新田川を渡る
橋の下は親水公園になっていて綺麗な花壇が印象的

↓

住宅地の中を通りすごい坂道にたどりつきました。そこには2009年開設のトラストグレイス御影という高級シニア住宅があります。広大な敷地で眼下には大阪湾まで神戸の住宅地が広がり素晴らしい眺めです。

道標石には右が十善寺、来た方向が知恵地蔵と表示、右に曲がるとすごい坂道、
坂の左手がトラストグレイス御影

すごい坂道の下は素晴らしい眺望

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■親和女子高等学校

やっとの思いで坂道の上までたどり着き、あとは住宅地の中を下ります。左手に親和女子が見えてきます。親和中学校と親和女子高等学校です。人工芝のグラウンドが綺麗です。1887年に元町に開校した神戸市で最も古い女学校で、1989年に中央区下山手通りから移転してきました。地元では「しんな」と呼ばれています。

六甲のふもとに広がるグラウンドは広く開けて気持ちがいい

親和中学校と親和女子高等学校の正門

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■神戸大学

親和女子から別れて西方向に小さな道を通って神戸大学に向かいます。途中で道を間違えて「十禅寺」へ行ってしまいました。改めて六甲山に向かう道に出て昔の教育学部を横目で見て神戸大学の敷地に入りました。教育学部は今は「国際人間科学部」になって、その中に「学校教育学コース」と「乳幼児教育学コース」があるのですね、知らなかった。

十善寺の参道の道案内と立派な山門
六甲のふもとにある神戸大学、学生さんは通学が大変

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馬術部の馬場、工学部、農学部と通り過ぎて神戸大学の西端から阪急六甲駅へ向けて下りて行きました。「六甲登山口」交差点の手前には「六甲カトリック教会」がありそのモニュメントの横を学校へ向かう多くの学生さんにすれ違いました。高市首相の後輩たちです。頑張って日本の未来を築いてほしいと願います。

馬術部の馬場と工学部
「六甲登山口」交差点付近では多くの学生さんとすれ違った

以上で「山麓リボンの道 02六甲のやますそ」を踏破しました。今回も坂道が多くクタクタです。閑静な住宅街と六甲山麓にかつて点在した阪神間モダニズム建築の風景を思い浮かべながら今日の散策を楽しみました。次回は「山麓リボンの道 03摩耶山のふもと」を楽しみます。

 

いいね。やっぱり神戸が好き。

もっとKOBE ずっとKOBE

ではまた次回をお楽しみに♠️

 

エッヘン!神戸自慢(その4)☆ 「ラムネ」

神戸発祥シリーズ、今回は誰もが知っているこの瓶の飲み物から

画像は Google Search より

 

「ラムネ」です!

このラムネが神戸発祥だなんて・・・  知らなかった💦

時は1884年(明治17)スコットランド出身の薬剤師、アレキサンダー・カメロン・シム氏が1870年に創業した「シム商会」から発売されました。

当初、シム商会のあった場所が居留地18番地だったことから、このラムネは「18番」の愛称で親しまれていました。

 

あの特徴的な瓶は、英国の Hiram Codd が発明したガラス玉入りの炭酸飲料瓶(コッド瓶)です。コッド氏はコルク会社で働きながらコルクの必要を減らすために、炭酸水のボトルを発明しました。

1873年に「グローブストッパーのボトル」と呼ばれるラムネ瓶が完成し、特許を取得しています。

初代ボトルです!

画像は 日本で初めてラムネ瓶を使ったA.C.シムのラムネと売れ行き : 阪急・阪神沿線文学散歩 より

 

この専用の瓶に入っている炭酸水が、神戸発祥のラムネ となります。

名前の由来は、レモネード(lemonade)を、日本語訛りにしたものだと伝えられています。

 

この「ラムネ」は明治に流行ったコレラに、新聞が「炭酸水はコレラ予防に良い」と書いたことで需要が急増しました。

 

これは全く医学的効果はありません💦

ではなぜ、このようなことが信じられたのかというと、当時の日本は「生水は危険!」→「煮沸・加熱・密封された飲料は安全!」と思い込んでいたからです。

 

そのお陰で、1880年だけでもシムは4,000円~5,000円の利益を上げ、居留地で最も金持ちの一人になったそうです。(現代の¥2,000万~3,500万に相当)

 

でもこのシムという人物は利他的な人で、その利益をもとに神戸クラブ*1)にふさわしい人物として、スポーツの才能・造船技術・サルベージ技師の才能を生かして社会貢献をしています。

東遊園地に建てられているA.C.シム顕彰碑には、シムの社会貢献・人格・功績を称える文で埋め尽くされています。

 

画像は 日本で初めてラムネ瓶を使ったA.C.シムのラムネと売れ行き : 阪急・阪神沿線文学散歩 より

 

・シムは、神戸居留地で公共の福祉に尽くした人

・シムは、道路整備・消防隊の指揮・慈善活動などに献身した人

・そして、その徳を慕う友人たちが碑を建てた こと等が書かれています。

 

さて、同じく炭酸水で忘れてはいけないのが

「有馬鉱泉株式会社」が1901年(明治34)に初めて販売したサイダー

その名も「有馬サイダーてっぽう水」

*因みにてっぽう水とは、ビー玉が入ったラムネの瓶の口を開けるときにポン!という音がするので、ラムネのことをてっぽう水と呼んでいたそうです。ラムネと同じ炭酸飲料なので、この名前が分かりやすいから付けられたのではないかと思われます。

 

シム氏のラムネに遅れること17年ではありますが、有馬温泉の炭酸源泉で作られたサイダーも、神戸自慢に入れたいところです(笑)

三ツ矢サイダーのルーツともいわれています。

今は「有馬八助商店」が販売しています。

では「ラムネ」と「サイダー」の違いを

【ラムネ】

レモン風味・語源はレモネード・炭酸圧は少なめ

容器は、コッド瓶(ビー玉入りガラス瓶)

明治初期、神戸居留地で普及

 

【サイダー】

レモンに限らずリンゴ風味もある

語源はcider(リンゴ酒)・炭酸はラムネより強い

容器は普通のガラス瓶に王冠栓

大正~昭和に全国普及

 

ざっとこんな違いがあります。

 

これからの季節、炭酸飲料がおいしく感じられますね。

ラムネやサイダーを飲むたびに、神戸発祥なんだ(^^♪と思いながら、潤いたいものです。

 

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*1)神戸クラブ

1869年神戸外国人居留地で創設された「西日本最古の外国人社交クラブ」で、神戸の国際都市としての歴史を象徴する存在。英国・米国を中心に、フランス・イタリア・ドイツなど多国籍の会員が集う。
外交・商業・文化の交流拠点として発展。
2014年に一般社団法人化。
会員は30か国以上に及び、文化・スポーツ・社交の場として今なお存続。

一般社団法人神戸倶楽部公式サイト(公式)Kobe Club  より

 

参照資料

神戸・兵庫の郷土史Web研究館/郷土史探訪ツーリズム研究所

日本で初めてラムネ瓶を使ったA.C.シムのラムネと売れ行き : 阪急・阪神沿線文学散歩

ウィキペディア

 

 

いいね。やっぱり神戸が好き。

もっと KOBE ずっと KOBE

ではまた次回をお楽しみに♥