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光源氏の気分で、明石の上の住む「岡の屋形」から「浜の館」まで通ってみました。

光源氏が須磨に流されている時、嵐に見舞われ

これを助けたのが、明石の入道という人物です。

 

この明石の入道という人は、元々は都で「近衛中将」という上流のお家柄の方だったそうなのですが、この身分を捨てて*播磨の国の受領(はりまのくにのずりょう)

* 播磨の国 (今の兵庫県西南部) / 受領(地方行政のトップ)

となりその後、出家し明石の入道として地元に住んでいました。

 

彼には娘がいて、その娘を高貴な方に嫁がせたいという下心があって

光源氏を助けるという行動に出るのです。

そのような身分の明石の入道の家ですから

とても立派で須磨で詫び住まいをしている光源氏

すっかり気に入ってその家で避難し続けていました。

 

入道は、光源氏をもてなすたびに娘自慢をしていました。

 

この時入道の娘は海辺の親の家を離れ

高潮の心配のない丘の上の安全な場所に住んでいました。

 

それが、神戸市西区櫨谷町松本!

 

今はそこに石碑が、静かに佇んでいます。

 

この岡の屋形跡の石碑を建てたのが、慶長2年(1597年)明石藩5代藩主松平忠国というお方!彼は文学に通じていて、文学遺跡として「源氏物語」ゆかりの名所として創設したようです。(参考文献:明石市立文化博物館)

 

源氏物語が書かれてから、500年以上たっている江戸時代でも人気文学だったことが分かります。

 

 

だが、さらに調べてみるとこの石碑が立っている場所も櫨谷川のそばで

当時のインフラを考えてみると、櫨谷川の氾濫などで危険な場所とみられ

その場所よりもう少し高台にある「願三山地蔵禅院」が建っているあたりが

「岡の屋形」に相応しい雰囲気があるといわれています。

(参考文献:神戸・兵庫の郷土史Web研究館)



願三山地蔵禅院

 

たしかに、このお寺の前は竹林になっていて

源氏物語の描写に沿っているような感じがします

源氏物語より)

造れるさま、木深く、いたき所まさりて、見どころある住まひなり

海のつらはいかめしうおもしろく、これは心細く住みたるさま「ここにいて、思い残すことはあらじ」と、思しやらるるに、ものあはれなり。

三昧堂近くて、鐘の音、松風に響きあひて、もの悲しう、岩に生ひたる松の根ざしも

心ばへあるさまなり。

前裁どもに虫の声を尽くしたり。ここかしこもありさまなど御覧ず・・・

 

 

この竹林を眺めていると、源氏物語のこの一節が頭をよぎります。

特に「三昧堂近くて、鐘の音、松風に響きあひて、もの悲しう」は、この願三山地蔵禅院のことでは?と思えてきます。

このお寺はもともとは、明石入道の持ち家を寺にしたもので明石入道が祀られているとのこと・・・

伺った日は、ちょうど庭師さんの手入れが入っていて、痕跡を見つけきれませんでした (( ノД`)シクシク…

 

ですが、そうだとすると明石の上が住んでいておかしくないですよね。

 

当時の身分ある方の家は、寝殿造

 

大体がこんな感じの、スタイルです。  

娘の避難所として、にわか造りだったとしたらもう少し規模は小さかったのかもしれないですが、源氏物語の中で「娘住ませたる方は、心ことに磨きて・・・」と、特別に美しい建物にしあげていた様子がわかります。

 

寝殿造とは、間仕切りが無く家全体の中は、柱以外何もない作りになっています。

床はフローリング(笑)板の間・板敷きのみ

そして、身分の高い人は畳を置いて座っていました。

間仕切りとして、几帳・御簾・すだれなどで仕切っていました。

 

大河ドラマ「光る君へ」の場面を見ても、そのような舞台に拵えています。

               画像は「光る君へ」のドラマより

このドラマを見ていると

平安時代の貴族の生活様式が分かって興味深いものがあります。



光源氏は、明石入道の明石の家から明石の上の屋形まで通ったとあるので

その道中も調べてみました(野次馬根性!(〃艸〃)ムフッ)

 

明石入道の住まい「浜の舘」は、「善楽寺」というお寺です。

 

そして境内には、こんな石碑が置かれています。

いにしへの  名のみ残りて 有明

あかしの上の おや住みしあと  と刻まれています。

 

また、

 こんな石碑もありました。

 

 

もともと、善楽寺というのは孝徳天皇の時代の大化の頃(645~650)に天竺の僧

法道仙人が開創した天台宗の大寺院で、明石では最も古い寺となっています。

おそらく、紫式部はこの善楽寺を知っており

明石入道の浜の館として源氏物語に登場させたのでしょうね。

 

地図で確認すると場所は、ココ!

 

今でも、海のそば!

平安時代ならもっと海が近くだったはず…

高潮が来れば水をかぶるのは当たり前の場所だったことでしょう。

 

そりゃ、高貴な方に嫁がせたい大事な娘を高台へ避難させたいと思うのは

親心というものですね。

 

では、神戸市西区にある

明石の上が住む岡之屋形(願三山地蔵禅院)までの経路をナビで見ると

 徒歩で、1時間22分と出ました。

 

そう!

明石入道が、折に触れて遠回しに娘自慢の話を聞くうちに、彼も男!

光源氏は鼻の下を大いに伸ばして、逢いに行くことにするのです。

 

源氏物語では、馬に乗って行ったとあるので

馬の歩くスピードは、毎分110m(時速6,6km)1時間

はやる気持ちがあり、駆け足だと毎分340mだそうなので17分程度で

明石の上のところまで通ったことになります。

 

こりゃ、通える距離だわ。

私は車で移動したのですが、信号待ちなどで20分ほど掛かりました。

今とそう変わらない、距離と時間にビックリ!

 

当時も同じような道であったとすれば

私は光源氏と同じような景色を見ているのだ、と

信号待ちの度に妄想しながら運転していました(笑)

 

平安貴族は、夜移動が多かったのかしら?

夜道だと寂しすぎるくらいの暗さに

供の惟光だけでは心もとなかったかも…なんてね (*´σー`)エヘヘ

 

なかなか、神戸は大昔から有名な所が多かったのかもしれない。

源氏物語の題材に登場するくらいですから

 

 

いいね。やっぱり神戸が好き。

 

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ではまた次回をお楽しみに