もっと KOBE ずっと KOBE

神戸の人、自然、景観、ファッション、食べ物、文化、便利さ、生活、全部好き!

「乙仲さん」がようさん居てはったからねぇ

神戸の街のイメージといえば、旧居留地の街並みや、そこに並んでいるブランドショップに見られるようなおしゃれな街という感じではないだろうか。そういうイメージも良いのだが、港町神戸が海運業とともに時代を歩んできた名残りのあるところも、知っておいてもらいたいと思い、今回は「乙仲通(おつなかどおり)」界隈を紹介しよう。

 

(国土地理院 GSI Maps を編集)


地図の青い太線が乙仲通。栄町通と海岸通の間を東西に走っている通りだ。点線の通りは、栄町通と乙仲通の間の細い路地だが、ここも、昔の建物をそのまま使った個性的な店が多いので面白い。

何で「乙仲通」と呼ばれるのか。昔、このあたりは港に近いことから船会社や海運業者がいっぱいあった。荷物を積んだ船が港に入ってくると、通関手続き、積み荷下ろし、陸送手配、倉庫保管など、船主と荷主の間をとり持つ仲介業が無くてはならない存在だった。不定期船の貨物を扱う業者を甲種仲立業(こうしゅなかだちぎょう)、定期船の貨物を扱う業者を乙種仲立業(おつしゅなかだちぎょう)と言われていた。後者にあたる業者が多く存在したことから、略して「乙仲さん」と呼ばれるようになり、通りの名前も乙仲通になったということ。

子供の頃は乙仲さんと言えば、船に荷物を積み下ろしする人だと思っていたが、実際はその前後の通関手続きや、陸送の手配や倉庫保管とかも乙仲さんの仕事の範疇ということだ。

では、今の通りの様子を観るために西から東へ歩いてみよう。神戸市中央郵便局の南に乙仲通の標識があり、通りに面した建物には乙仲通と呼ばれるようになった経緯とかが書いてある。

(↑ここにちゃんと書いてました)


この通りの建物の特徴としては、5階までの低層階のビルが多い。つまりエレベータは無いビルが多い。今、そのビルの1階はカフェや雑貨やスイーツの店舗が入っているパターンが多く見られる。海運業の看板が残っているビルもある。

2階以上は事務所が入っている感じ

昔は倉庫だったんじゃないかなと思えるような建物にも店舗が軒を並べている。

 

交差点の角にあるビルは、コーナーが面取りしてあり、そこにエントランスを構えるビルも多い。そこも今はカフェなどの店舗が入口を構えているのがほとんどだ。

 

明らかに昔のビルをそのまま使おうと工夫しているパターンもある。昔の雰囲気がいい感じだ。

榮街ビルディング
中央のエントランスから中をのぞいてみました


昭和ビルは昭和10年に建てられたそうです。これらの昔のビルは阪神淡路大震災を耐え残ったんでしょうね。

(左) 昭和ビル

 

1階フロアが地上から階段を数段上がったところにあり、そのため浅めの地下フロアを持っているビルもいくつかある。その地下へのエントランスが外階段になっているから、半地下っぽくて興味津々。

手前に地下に降りる階段がある
両側から地下に降りる階段がある

 

昔ながらの雰囲気をそのままに残しているお店もあります。
ヘアーサロン石田さんは、昭和22年にここにお店を出されたそうな。

店の前に置いてある鉢にはメダカが泳いでいる


お食事処の㐂八さんは創業100年を超えているそうです。

 

乙仲通と栄町通の間の路地にも、個性的な店がいっぱい軒をつらねている。カフェ、雑貨、古着、骨董品などなど。

 

 

居留地のように洋風建築の中にブランドショップが溶け込んでいるのも神戸らしいですが、海運業がさかんだった頃の商業ビルに個性的な個人ショップが融合している乙仲通も港町神戸らしいとは思いませんか。

また、この乙仲通の魅力を発信していこうという「乙仲通界隈プロジェクト委員会」という組織もあり、毎年活動を続けているようだ。こういった場所も神戸の魅力として、これからも発信し続けてほしいと思う。

 

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ではまた次回をお楽しみに ♣︎

 

KOBE ルミナリエ

 1995年12月に始まった「神戸ルミナリエ」、今年で31回を迎えます。
阪神・淡路大震災に遭い、苦しさと悲しさでうつむく日々の中、顔を上げて少しでも気持ちが明るくなるようにと、復興していくためのシンボルとして始まった行事です。



神戸ルミナリエ 2026」のテーマは「神戸の鼓動、光の物語」
各所で美しい光のオブジェが訪れた人々を笑顔にしてくれます。
ルミナリエが観られるのは、「東遊園地会場」「旧外国人居留地」「メリケンパーク」小さなオブジェの「北野町広場」「波止場町緑地」。

東遊園地会場 作品名:聖なるアプシス(Absis Sacrae)

 

旧外国人居留地三井住友銀行まえ) 作品名:オペレッタの劇場(Teatro dell’Operetta)

 

メリケンパーク 作品名:海を望む宮殿(Palazzo sul Mare)

私も、大きな揺れとその後に続く多数の死傷者、壊滅的な街の様相に打ちひしがれ、火事の発生に怯え、ガス管が復旧するまでは重ね着で寒さをしのぎ、食べ物や燃料の調達に走り回る寒く冷たい日々を過ごしました。
「自分(の被害)はマシなほう、マシなほう」と言い聞かせて、鼓舞した11カ月。

 初めてルミナリエの光をみたとき、まばゆい光の彫刻のが放つ包み込むような光、荘厳な光の回廊を通り抜けた先にある圧巻の光の壁掛け作品(スパッリエーラ)、その背後に静かに流れるレクイエム
---- 気が付くと、涙があふれていました。

 当時メリケンパークの岸壁は、大きく破損して船が着岸できなくなり、『BE KOBE』のオブジェのすぐそばの岸壁あたりに、定期便を運行している大型船がシップホテルやお風呂船として停泊していたり、神戸から避難する人を輸送していました。
また定期観光船も、食料をはじめとする物資輸送を、神戸ー大阪間で行っていたり、ポートタワーの隣りに白くそびえる海洋博物館は、臨時の避難所として大きなエントランスを開放して、多くの市民を守ってくれました。

月日の流れは、すべてを包み込んでくれる。
明るい光に向かって、回廊を歩くようにルミナリエの光が導いてくれたような気がします。

2026年の開催は、2月8日(日)まで。
メリケンパーク」会場は、有料のうえ予約も必要です。
※運営費が相当かかるので、寄付だと思ってください。

行かれるときは、防寒をしっかりヌクヌクにしてください。
キッチンカーがいくつも出ていて、お腹も満たしてくれます。
(温かいスープ、ほかほかのベビーカステラもありました。)

KOBEルミナリエ https://kobe-luminarie.jp/

会場で流れている音楽は、作曲家でプロデューサーの上田 益(うえだ すすむ)氏のレクエム・プロジェクトで作られたもの。YouTubeにも挙がっています。
https://www.composer-ueda.com/


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ではまた次回をお楽しみに♦

 

阪神間モダニズムを探して ー西尾家住宅ー

阪神間モダニズムとは明治後期から大正をへて昭和初期にかけて阪神間を中心とする地域において産まれた近代的な芸術・文化・生活様式のことです。

poko2023.hatenablog.com

今回は須磨離宮公園の西隣の西尾家住宅を訪ねました。

西尾家住宅の重厚な全景

芦屋や東灘は大阪の豪商の邸宅が広がったのに対して、須磨の地には神戸の豪商が邸宅を造ったように思います。当時、須磨は武庫離宮(むこりきゅう)の造営(1914年)や鉄道の敷設で神戸の別荘地として開発が進められました。武庫離宮は皇室の別荘で天皇陛下がご宿泊することを目的に造営された建物です。神戸空襲で焼失して今は須磨離宮公園になっています。須磨離宮公園の南東方向にある現在の三菱重工の社宅の場所には鈴木商店の社長鈴木よねさんの大邸宅があったようです。また、山崎豊子原作「華麗なる一族」のモデルになったと言われる岡崎財閥の豪邸は須磨離宮公園の東側にあり今は須磨離宮植物園になっています。

poko2023.hatenablog.com

 

西尾家住宅は 西尾類蔵氏の邸宅として1919年(大正8年)に建設され、迎賓館として神戸社交会の要人を迎えたようです。西尾類蔵氏は西尾商事会社を経営して海運業で富を築き、また常盤土地建物会社も経営して大丸の土地建物を所有して、神戸発祥の阪神間財閥だったようです。現在も西尾家住宅は氏の子孫が所有して、建物は建築当時のままでフレンチレストラン「ル・アン」として利用されています。2010年には兵庫県重要有形文化財に指定されています。

 

建物の設計は設楽貞雄氏で、初代通天閣をパリのエッフェル塔を模して設計したことや岡崎財閥邸宅など数多くの大正から昭和にかけての近代建物を手掛けられました。

 

それでは建物を紹介します。セセッション様式(19世紀末から20世紀初頭にかけてウィーンやドイツで興った芸術革新運動)を基調にアール・ヌーボの流れを汲んだ大正モダニズム建築と言われています。重厚な外観、縦長の窓、大きな出窓が印象的です。玄関のタイル張り、玄関周りの細かい石の装飾や繊細なデザインが美しい。

八角形の出窓が印象的

縦長の窓が美しい

玄関は石造の繊細な装飾が施されている

幾何学模様のタイルが美しい

入り口を入ると趣のある天井、存在感のある大階段、彼方此方にはめ込まれた繊細なステンドグラスが当時の風格を伝えています。

美しい入口の天井と各部屋のドアの上部のステンドグラス

大階段の正面にあるステンドグラス

玄関の右側の部屋が出窓のある部屋になっておりお客様を迎えるための控え室だったのでしょう。今はレストランの控え室になっています。床から照明まで全てに大正時代の風格を感じます。

入口右側の待合室

玄関の正面は豪華絢爛な社交文化の「風格の間」です。今はレストランとして使われています。

照明や建具は当時のままのレストラン

 

「風格の間」の奥には当時は日常の食堂に使われていた部屋があります。

当時の食堂、中央のステンドグラスは神戸らしいデザイン

 

玄関の左側には存在感のある大階段があり、2Fの大広間に続きます。

風格のある階段
階段周りのステンドグラス

2Fの大広間(鳳凰の間)は書院作りです。洋館の中に本格的な和式の部屋で阪神間モダニズムの特徴である和洋折衷です。床の間、違い棚、障子、鳳凰が彫られた欄間が配置され武士文化が残されています。見学した時は結婚式の披露宴の後片付け中でした。きっと大正モダニズムの雰囲気が溢れた素晴らしい披露宴だったのでしょう。

書院作りの鳳凰の間

 

建物から外へ出て広大の庭を散策しました。建物の海側は洋風、山側は和風になっています。和風庭園ではあずまやの「真珠亭」や茶室の「松風閣」、池とところどころに灯籠もある日本庭園が造られて、ここでも和洋折衷が工夫されています。あずまやは庭の自然に溶け込み風流で雅な雰囲気を醸し出しています。庭園散策の休憩所として全体の観賞場所になっていたようですが、残念ながら締められており休憩はできません。

あずまやの「真珠亭」

「真珠亭」からの眺め、左に茶室があります

茶室の「松風閣」、壁は紅殻(ベンガラ)色の漆喰が塗られてお洒落な雰囲気
池にかかる石橋と灯籠、後に茶室が見えます。

レストランは神戸迎賓館の名前に相応しいサービスとフランス料理でおもてなしされています。ランチをいただいてリッチな気分になりました。特別な日には是非利用したいレストランです。

www.vizcaya.jp

 

大正時代に建設された建物と内装がそのまま今もレストランとして使われているのに驚きました。案内していただいたマネージャーに「メンテナスが大変でしょう」とお聞きすると「建物は使わなければ劣化していきますが毎日使ってますので大丈夫です」と言われたことが印象的です。風を通すことで木材が活きて、日々のメンテナスでピカピカの床になり、不具合の早期発見ができるのだと思います。文化も同様で展示しているだけでは廃れていきますが、日々の生活の中で体現することで後世に受け継がれていくものだと思います。

 

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ではまた次回をお楽しみに♠️

 

垂水区の村へタイムスリップ!村の鎮守さま巡り

江戸時代の垂水区にやってきました。

当時の垂水区には、10の村がありました。

https://geoshape.ex.nii.ac.jp/nrct/resource/29/290000034600.html より

より詳しく、今の地図に落とし込んでみると

このように、区割りできます。

中山村・奥畑村の点線は、ハッキリしなくて多分こんな感じだろうという独断で描いたラインなので、あまり信用しないでください。

 

北のほうから、時計回りに紹介すると

中山村・奥畑村 / 西名村 / 滑村 / 東名村 / 下畑村 

塩屋村 / 東垂水村 / 西垂水村 / 山田村 / 多門村

の10ヶ村になります。

 

これまで見てきた神戸市内の各区の村は、おおよそ村ごとに鎮守さまがありましたが、垂水区は特別で、村の八割が鎮守さまとして尊崇していた一つの神社がありました。

 

それが、瑞丘八幡神社(みずおかはちまんじんじゃ)

どんな神社なのか、知りたくなって訪れてみました。

 

狛犬のスタンプがかわいい御朱印

JR・山陽電鉄 垂水駅よりなだらかな坂を、徒歩10分ほど上った所にあります。

 


鳥居をくぐり進むと左手にあるのが、猿田彦神社

交通安全・お導きの神

 

右手にあるのは吉高稲荷神社

  

五穀豊穣・商売繁盛の神

そして正面に本殿があります

 

神社のHPによりますと*1)

創祀年代は不詳だが垂水では有名な古社、海神社が瑞丘八幡神社主祭神神功皇后の祭祀により創祀された(約1800年前)と伝えられているので、その時代くらいからこの場所に祀られていたと考えられる。

 

この神社に残されている最も古い記録は、今の本殿造営の際に奉納された棟札の裏書に「永禄甲子年従上棟文政六癸未年(みずのとひつじどし)迄二百六十年至」と記されているものです。

意味は、「永禄7年(1564年)の上棟より文政6年(1823年)まで260年に至る」

このことから、確かな記録としては1564年には存在していたことが分かります。

そしてその棟札には、西垂水・東垂水・塩屋・下畑・東名・西名・滑・中山・奥畑の村の庄屋や年寄りの名が記されており、また、明石藩家老の寄進安堵状(きしんあんどじょう)(元和6年・1620年)に「垂水郷八幡宮」と記されていることから、垂水各村、明石藩からも尊崇され、垂水の八幡宮として祀られていたことが分かる、とあります。*1)

 

こんなに垂水区内の村全体から尊崇を受けている神社にしては、「こじんまりとしているな~」が、私の感想でした。

今は、住宅が立ち並び海まで見渡せないですが、当時は小高い丘から海神社の鳥居を望むことが出来たのだろうなぁと、本殿を背に海の方向を見て思いを馳せました。

 

行った日が厄神際の前日だったこともあり、駅から続く参道には幟旗がいくつも立てられて神社までの道案内をしてくれました。

 

私はてっきり、垂水区の村々の鎮守は最も古い海神社だとばかり思っていたので意外でした。その海神社にも駅近だったので寄ってきました。

 

海神社は二つの大きな鳥居があります。

(そういえば、長田区の駒林神社もそうでしたね~)

境内にある石造りの鳥居から

海のほうの朱塗りの鳥居を臨む図

 

その昔は、おそらく砂浜だったので二つの鳥居の間を妨げるものは何もなかったはず。

今は、建物や車の往来で忙しないことこの上もないです。

神武皇后も、後の時代にここがこんな事になるとは想定外だったかもですね(笑)

海神社の過去のブログ*2)

 

 

さて、以下の5つの村では独自の鎮守さまを祀っているので探ってみました。

 

中山村・奥畑村 ⇒ 宮野尾神社 

sareko026 さんのブログ*3)によりますと、昭和57年(1982年)発刊の「たるみ史跡めぐり」で、元々は旧中山村七森にあった氏神を、山中村の鎮守に合祀した御社だったそうな。30年ほど前は、まだ山深い「宮野尾神社」であったらしいが今は山を切り崩し、巨大なマンションや病院が建ち、山深いイメージは失われている。ただ、神社は再建され、獅子舞も若い人たちによって受け継がれているようです。

 

広報誌KOBE 2022年(令和4)9月号で獅子舞が紹介されていました。

https://www.city.kobe.lg.jp/documents/15826/kyoudogeinou.pdf

こういうことが、大切に引き継がれているのはとても嬉しいことです。

 

 

下畑村 ⇒ 下畑大歳神社下畑海神社

下畑村には二つの鎮守さまがあります。

 

下畑大歳神社

 

HP*4)によると、承安年間(1171~)平清盛の建立と伝えられています。

天高稲荷が祀られており、下畑の6戸の戸主が統主として輪番制で、コメと豆を集めて握り飯を作り、これを山伝いに地区の境に置いていく。冬の食べ物のなくなる時期に山の動物に食べ物を与えて、山を荒らすのを抑えるための「野坂舞」という行事を行っている。これも五穀豊穣祈願のお祭りである。

 

下畑海神社

 写真はHPからお借りしました

HP*5)によると、御祭神(底津綿津見神 そこつわたつみのかみ)は、宝暦年中(1751~)に垂水村鎮座の日向神社(海神社)の御分霊を迎えて下畑村の鎮守として祀ったと伝えられています。

下畑地区の統主(森本・石坂・佐伯・藤田・佐伯・林の各家の戸主)が一年間の輪番制(トウニン)で、地区内の神社を守っている。今も、大晦日の夜トウニンがお宮に籠り新年を祝っている。

 

東垂水村 ⇒ 皇大神社

 写真はHPからお借りしました

HP*6)によると、祭神は天照大神享保12年(1727)の銘がある石燈籠があるので、それ以前の建立と思われれる。往古より、農業・漁業の繁栄を祈願して祀られてきた。

境内には稲荷社と白龍・黒龍の社も建立され、皇大神社とともに、商売繁盛・家内安全の神として信仰を集めている。

 

山田村 ⇒ 舞子六神社

 写真はHPからお借りしました

HP*7)によると、元禄2年(1689)と、神輿渡御に供奏する金弊に刻銘されているのが一番古い記録として残っている。江戸時代前期中葉に、山田村の鎮守として六社大明神の社を建て、六柱の神を祭ったのが始まりだと思われる。

明治時代の神仏分離令により「明神」が廃止され、六社神社となり明治7年2月に六神社(舞小六神社)と改め今に至る。

 

因みに、舞子という可愛らしい地名の由来は諸説あるそうですが

ひとつは、平安時代在原行平平清盛などが女性を集めて舞を躍らせたから・・・

他には、海峡の中で最も突き出している所なので、潮が回り込む浜だから・・・があるそうです。

私は舞を躍らせた説に1票を投じたいです(笑)

 

 

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ではまた次回をお楽しみに ♥

 

 

参照資料

*1)御由緒 - 垂水の瑞丘八幡神社(公式)|神戸市、垂水区、西区、明石市垂水の瑞丘八幡神社(公式)|神戸市、垂水区、西区、明石市

*2)神戸市歴史探検!垂水・舞子 - もっと KOBE ずっと KOBE

*3) 宮野尾神社(神戸市垂水区) / MIYANOH-SHRINE ( TARUMI-KU,KOBE CITY ) : 秘神社と稀仏閣の世界

*4)下畑大歳神社|兵庫県神社庁 神社検索

*5)下畑海神社|兵庫県神社庁 神社検索

*6)皇大神社|兵庫県神社庁 神社検索

*7)御祭神 年中行事 歴史 | 舞子六神社 公式サイト

 

 

乗ってみた~い!神戸(その1)

 毎年 年末年始には、交通手段の運航がイレギュラーになるのでHPで運航を確認します。年中我々を輸送してくれる、乗り物やそれに携わる方々には感謝です。

 神戸にもいろんな乗り物があります、電車、新幹線、船、飛行機。。。
思い付く限り書き出してみました。↓

あまりたくさんあるので「道路を走る」「海を移動」「山や斜面を移動する」「線路を走る」「空を移動」のグループに分けてみました。

 

道路を走る

上から、市バス・水素バス・シティーループ・坂バス 下 ポートループ

 中でも1番、台数が多い路線バスの「神戸市バス」は神戸市交通局が運航していて、市民の足として活用されています。
神戸市街の清潔さと背山の六甲をイメージした、白とローングリーン(深緑色)でデザインでデザインされています。※平成10年以降、導入されたノンステップバスにはライトグリーンを使用。
 2025年4月からは、一部の路線で神姫(しんき)バスとの共同運航が始まり、オレンジ色の車体をバス停で見かけるようになりました。
以前紹介した記事でも、路線バスに乗る楽しさを紹介しました。

poko2023.hatenablog.com

 2023年に水素スマートシティ神戸構想に基づき、二酸化炭素やガスを一切排出しない「水素バス」燃料電池バス)が1台導入されて、従来の市バスと異なるブルーのデザインのバスと出くわすとラッキーです。
 「坂バス」ってちょっとへんな名前でしょ。
急な坂道を登っていくように作られた少し小ぶりのバスで、狭い道幅でも行き違いが難なくできるようになっています。坂道の多い神戸らしい路線バスです。

 神戸のを中心とウォーターフロントをを結ぶ「Port Loop(ポートループ)」は、全長18メートルの長~~い車体で、一度に大勢の人を乗せることができます。 2025年4月にオープンした日本初・270度海に囲まれたアリーナGLION(ジーライオン)と三宮のシャトルバスとしても利用されています。

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海を移動 

右 上から 神戸シーバス・コンチェルト・ロイヤルプリンセス・御座船 安宅丸(ござせん あたけまる) 左下 海賊船 DAIYUMARU 大雄丸

 神戸ポートタワーに隣接する、遊覧船の旅客ターミナル「かもめりあ」(中突堤中央ターミナル)があり、そのすぐ前が船着き場です。
ここからはロイヤルプリンセス、御座船安宅丸、神戸シーバス boh boh KOBE 号が乗ることができます。
海風を感じながら海から神戸を見ることができます。※今は少し寒いですが。
海賊船DAIYUMARU 大雄丸は、活動拠点が須磨なので事前の確認が必要です。

上 神戸-関空ベイ・シャトル 下 淡路ジェノバライン

 定期船には、大阪の関西国際空港と神戸を結ぶ「ベイ・シャトル」がポートアイランドの「神戸空港海上アクセスターミナル」から出ています。
2隻の双胴高速艇「umi(うみ)」号「sora(そら)」号が一日32便運航して関空との間を往復しています。
 淡路と明石を13分で結ぶ「淡路ジェノバライン」は神戸のお隣りの明石市と淡路の岩屋を結ぶ定期船。船体には楽しいユニークなペイントも見られます。明石海峡大橋が出来る前に就航していた「たこフェリー」を思い出しました。

まだまだありますが、続きはまた今度をお楽しみに。


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ではまた次回をお楽しみに♦

※画像は各社のHPのものを使いました。
※運行状況は、季節により変わるので各社のHPや電話などで問合わせをしてください。

 

倚松庵(いしょうあん)と阪神間モダニズム

阪神間モダニズムとは、日本で明治後期から昭和初期にかけて「阪神間」(大阪市と神戸市の間)を中心とする地域において育まれた近代的な芸術・文化・生活様式のことです。

その名付け親は文化プロデューサの河内厚郎さんで、個人事務所を構え関西の文化醸成に尽力されています。月刊神戸っこ20169月号に河内厚郎さんへの阪神間モダニズムの意味や影響についてのインタビュー記事があります。その中から内容を紹介します。

 

モダニズムの時代、阪神間の住宅街は日本一になり先頭を走った。

・単なる舶来趣味ではなく、端的に言えば和洋折衷だが、阪神間ではそのデザインがうまくいった。

・夙川、芦屋川、住吉川という3つの川が流れているが、それぞれの川沿いの街には個性がある。

住吉川沿いは最も早く、明治30年代から郊外住宅開発がおこなわれ、日本一の金持ち村といわれた。朝日新聞の村山家と住友家が大阪から移ってきたのが大きい。

・夙川は文学の題材に採り上げられることが多い。夙川は下流から上流へ行くと変化が大きく、いろいろな場所にいろいろな人がいた。遠藤周作カトリック夙川教会で洗礼を受け、井上靖も戦前に香櫨園に住んでいて、戦争中には大岡昇平も神戸の会社に勤め夙川を描いた。谷崎潤一郎小松左京も一時期住んでいた。物理学者の湯川秀樹も苦楽園にいた。戦後も山口誓子黒岩重吾、そして村上春樹小川洋子

・もっと大きな視点から見ると、「柔らかい個人主義」(西宮に住んでいる劇作家の山崎正和さんの言葉)。コミュニティは維持しながら、あまり村的な付き合いはしたくないという微妙な距離感、これが阪神間モダニズムの遺産。

・さらに個人のライフスタイルの処し方が洗練されている点。気取っていないけれど洗練されている。人間の考え方、モラルというのは、昔から労働や生産の方からばかり論じられてきたが、むしろ、消費生活の方に人間のナチュラルな姿があらわれる。

・『細雪』も延々と生活を描いているだけだと発刊当時は批判されていたが、今は名作と評されているのは、消費生活のスタイルが描かれているからではないか。

阪神間モダニズムの真髄とは? | 神戸っ子

 

阪神間モダニズムの建物

阪神間には数多くの昭和初期の建物があり阪神間モダニズムの文化が反映されています。今までいくつかを紹介してきましたが、阪神間モダニズムと観点で見直すと新しい発見もあります。

□白鶴美術館〝昭和の正倉院

poko2023.hatenablog.com

□御影公会堂

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□六甲山のカフェ

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□旧乾邸

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□その他にも旧甲子園ホテル、神戸女学院関学ヨドコウ迎賓館、、、

 

阪神間モダニズムの庭

西尾家住宅(須磨)

旧グッゲンハイム邸(塩屋)

山口誓子邸(苦楽園から神戸大学内に移設)

旧村山家住宅(御影 香雪美術館)

旧高嶋家住宅(神戸甲南武庫の郷)

阪神間モダニズムの庭園一覧 (22件) | 庭園情報メディア【おにわさん】 / 2000の日本の庭園を紹介する庭園マガジン。

 

■『細雪』に描かれている阪神間モダニズムの生活

細雪』の世界は〝昭和の源氏物語〟とも言われているようです。『細雪』の舞台になった『倚松庵(いしょうあん)』について調べてみました。谷崎潤一郎京阪神で13回引越を繰り返しています。それは小説のイメージと合致する環境を選んで引越したようです。

①苦楽園ー高台で眺めがいい ②岡本山村北畑ー落ち着いた定住を始めた ③岡本梅ヶ谷ー鎖瀾閣※、唯一自分で設計した家 ⑫倚松庵

※鎖瀾閣は阪神淡路大震災で全壊。鎖瀾閣復元委員会を組織して再建活動を行ったが、再建着手直前で住民の反対運動で断念。鎖瀾閣VRを完成。

 

https://www.youtube.com/watch?v=th8pconIJkQ

 

 

細雪』は倚松庵で生活しながら執筆し、阪神間モダニズムの文化を自分の実生活をダブらせて描いた小説です。谷崎潤一郎の研究を続けてきた、武庫川女子大学名誉教授のたつみ都志さんの話をから阪神間モダニズムの文化について考えました。

住吉川沿いに移設された「倚松庵」

こいさん、頼むわ。―――」

 鏡の中で、廊下からうしろへ這入って来た妙子を見ると、自分で襟を塗りかけていた刷毛を渡して、其方は見ずに、眼の前に映っている長襦袢姿の、抜き衣紋の顔を他人の顔のように見据えながら、

 「雪子ちゃん下で何してる」

 と、幸子はきいた。

 悦ちゃんのピアノ見たげてるらしい」

 

谷崎 潤一郎. 『細雪』はここから始まります。

2階のこの部屋に置かれた鏡台が舞台になっている

 

「なあ、こいさん、雪子ちゃんの話、又一つあるねんで」

 「そう、―――」

・・・・

「井谷さんが持って来やはった話やねんけどな、―――」

 「そう、―――」

 「サラリーマンやねん、MB化学工業会社の社員やて。―――」

 「なんぼぐらいもろてるのん」

 「月給が百七八十円、ボーナス入れて二百五十円ぐらいになるねん」

 「MB化学工業云うたら、仏蘭西系の会社やねんなあ」

 「そうやわ。―――よう知ってるなあ、こいさん

 「知ってるわ、そんなこと」

・・・・

「そんな会社の名、私は聞いたことあれへなんだ。―――本店は巴里にあって、大資本の会社やねんてなあ」

 「日本にかて、神戸の海岸通に大きなビルディングあるやないか」

 「そうやて。そこに勤めてはるねんて」

・・・・

井谷と云うのは、神戸のオリエンタルホテルの近くの、幸子たちが行きつけの美容院の女主人なのであるが、縁談の世話をするのが好きと聞いていたので、・・・

 

たわいも無い日常生活の会話が延々と続くのが『細雪』です。正直、読んでいてもすぐに眠たくなります。でも、その中に神戸の地名などが次々と出てくるので親密感を覚えます。

自宅が阪神間にあり主人の勤めは大阪の金融や商社の裕福な家庭で、奥さんや娘たちが神戸で食事をしたり買い物を楽しむ生活スタイルが続くのである。また、娘さん達が自分のやりたい事をして活き活きと生きるライフスタイルや、それとは対照的に金持ちとの縁談の話について人物評価をするような巷で話題にされるような話が続きます。でも、時代背景は戦前から戦中の軍部が幅を利かす時にそんなゆったりとした優雅な世界が描かれており、それはまさにモダニズムの文化であると感じます。

谷崎潤一郎は「倚松庵」に昭和11年(1937年)11月から昭和18年(1943年)11月まで妻の松子と過ごして「細雪」の執筆を完成させたようです。小説は貞之助と幸子を含む四姉妹(鶴子、雪子、妙子)と幸子の子供の悦子が登場するが、谷崎潤一郎、妻の松子、その姉妹の朝子、重子、信子と子供の恵美子をモデルにして描かれたと、たつみ都志さんは語っています。

四角枠は実在の谷崎潤一郎の親族(たつみ都志さん資料より)

そんな姉妹がゴロゴロと昼間を過ごした部屋が食堂の西の和室だそうです。そこは廊下を挟んで風呂場の隣の部屋で着物を脱ぎだり洗濯物の置き場になっていたようです。また、西側の壁の低い掃き出し窓があり開いていると風が通り家中で一番涼しい部屋であったようです。

低い掃き出しのある開口と廊下を挟んで隣の風呂場

西洋風のダイニングルールや応接と旧来の和室を組み合わせた構造は当時の阪神間モダニズムのスタイルで今の住宅に受け継がれています。

応接とモダンな間接照明
豪華な食堂、椅子は当時のもの。台所は別の部屋になっており食事が運ばれた。

 

それまでに日本家屋では和室がつながり部屋から部屋へ移動していたが、廊下で部屋が分かれており廊下を使って移動する導線になっています。

廊下で部屋は区切られており廊下から階段で2階へ

間取り図

単なる西洋化ではなく日本の文化の中に西洋文化を取り入れていき、「柔らかい個人主義」の文化を育ててきた京阪神の先人の知恵をあらためて認識しました。これから先も時代はどんどんと変わっていくと思いますが、良いものを残しつつ変革していくことが生き残る秘訣なのでしょう。

 

いいね。やっぱり神戸が好き。

もっとKOBE ずっとKOBE

ではまた次回をお楽しみに♠️

***

新年明けましておめでとうございます

今年もよろしくお願いします

 

須磨区の村へタイムスリップ!村の鎮守さま巡り

今回は須磨区にあった村と、神社仏閣の紹介です。

須磨区には、8つの村がありました。

 

 

白川村車 村妙法寺多井畑村

板宿村大手村東須磨西須磨

の八村です。

そしてそれぞれの村に、神社仏閣が建てられており

その数がこれまでのどの区よりも多く、その数43にも上ります!

北から順に見ていきましょう。

 

白川村(8寺社)

白川大歳神社・すさのお神社・山伏山神社・恵光寺

すがはら寺・勝光寺・佛稱寺(ぶっしょうじ)・慈雲寺

 

鎮守神白川大歳神社 須磨区白川字宮ノ西373

一条天皇の995年(長徳元年)この山村に疫病が大流行したので、須佐之男命を迎えて疫病退散を祈願したといわれるが、もとは、トシ(古語で米を意味する)の神を祀る社。*1)

 

 

車 村(2寺社)

車大歳神社・慶雲

 

鎮守神車大歳神社 須磨区車字松ヶ原551

由緒は不詳ですが、大化2年(646)の創建と社伝(『武庫郡誌』)にも記載されており、また応永4年(1397)6月19日摂津国八部郡丹生郷より遷座されたとも伝えられています。

古くは今よりも南にあり、三木街道沿いの今もある字大道(おおどう)はもと大堂と書き、壮大な社殿を営んでいたといわれていますが、現代の社殿は、元禄5年に改築されたものです。

翁舞神事(平成12年12月『国の重要無形民俗文化財』に指定)

この舞は呪術性が強く、当社のご神体として祀られている神面を使って「天下泰平」「国土安穏」「五穀豊穣」を祈願するもの  *2)

  HPより

 

 

妙法寺(8寺社)

五社神社妙法寺・北向厄除八幡神社

飛竜寺・長楽寺・萩の寺・飛龍寺・宗照院

 

▶(妙法寺村には、鎮守神が2社存在!)

鎮守神 五社神社  /  北向厄除八幡神社

 

五社神社 須磨区妙法寺字毘沙門山1287

聖武天皇の御代、天平10年(738)3月、僧・行基が此の地に毘沙門山妙法寺を開創の節、同寺の鎮守として創祀された。

創祀以来、妙法寺と共に皇室(聖武天皇高倉天皇の勅願所)の御尊崇を高く受けていた。吉野蔵王権現熊野権現白山権現などと習合され、五社権現と称した。

平清盛が福原遷都の際には「新鞍馬」と称され、王城鎮護の霊場として寺領を寄進している。

明治に「村社」に列格される。*3)

 

北向厄除八幡神社 須磨区妙法寺字宮ノ下54-1

創建は、 室町時代の1447年頃と伝えられていますが、正確な年代は不明(byAI)

一説では1484年(文明16年)の創建と伝えられる。
源平合戦のとき、那須与市宗隆が、この北向厄除八幡神社を守護神として戦場にのぞみ、武運をまっとうした。お礼のため、その後再びこの地を訪れ参詣したが、たまたま病にかかり、この地で死去したという伝説がある。*1)

 

 

多井畑村(4寺社)

多井畑厄除八幡宮大聖寺正蔵院・明善寺

 

鎮守神多井畑厄除八幡宮 須磨区多井畑字宮ノ脇1

日本最古の厄除けの霊地

770年(神護景雲4年)6月に疫病が大流行し、それを鎮めるために五畿内(大和、山城、河内、摂津、和泉)の国境10ヶ所に疫神を祀り、疫祓いが行われたのが始まり。

 

本殿に辿り着くまでに、ものすごい数の階段を登らないといけません💦

84段             32段          18段

そして、本殿前にトドメの階段が・・・

10段(笑)

この本殿の裏徒歩1~2分ほどに、由緒にある疫病を祓う疫神塚があります。

鳥のさえずりしか聞こえない、静かな山道に清められた気持ちになります。

疫神塚までの道

そして、疫神塚とその前に人型流しの水鉢がおかれています。

紙の人型に自分の穢れを移して、水に浮かべて流します。

疫神塚

 

須磨に配流された在原行平や、一の谷の合戦の際には源義経が祈願したといわれている。

多井畑厄除八幡宮山陽道の摂津と播磨国の国境に位置していたため、その一つとして疫神が祀られたと伝えられている。*4)

 

山陽道 奈良時代に整備された官道で、都(平城京)と大宰府を結ぶ日本最重要の幹線道路。道幅は10~12mの直線道路で、駅家(うまや)という施設が16kmごとに設置されて、軍事・外交・物流の大動脈となっていた。(by:Copilot)

 

 

板宿村(6寺社)

板宿八幡神社・弘誠寺・禅昌寺・佛心寺・順照寺・立正寺

 

鎮守神板宿八幡神社 須磨区板宿町3丁目15-25

菅原道真公が九州左遷の際宿泊されたゆかりの地に、永延元年(西暦987年)1月、菅公と武神八幡大神鎮守神として創祀され、更に明治41年に池之宮明神(別名鳴滝明神)が合祀されました。*5)

 

 

大手村(1寺社)

大手村東須磨村相論絵図 文化遺産オンライン の古地図で勝福寺を探してみて

 

鎮守神勝福寺   須磨区大手町9丁目1-1

勝福寺
鐘楼の周りが銀杏の落ち葉で黄金色に輝いていて、とても美しかったです

988年(永延2年)太政大臣藤原伊尹(これただ)の三男、藤原英雄丸が勅命により、証楽上人と名を改め、高取山麓に庵を建て、鹿松峠(かのししまつとうげ)に出没していた鬼人を仏教の力で退散させた後に開いたといわれている。
七堂伽藍、三十六坊を有する大寺院であったが、しばしば山津波にあって堂塔、宝物を失い、現存するものはわずかに山門と庫裏のみ。

1938年(昭和13年阪神大水害で倒壊した本堂は、2009年(平成21年)71年ぶりに再建された。
1月7日の追儺式は、証楽上人の鬼人退治にちなむと伝えられ、たくさんの人でにぎわっている。*1)

 

☆ お参りした日はお留守でどなたも居られず、静謐な境内を散策するだけでした。

 

 

東須磨(10寺社)

證誠神社(しょうせいじんじゃ)・西極楽寺・高松寺・順照寺・護国寺・浄徳寺・弘誠寺・勝福寺・妙興寺正覚寺



鎮守神證誠神社(しょうせいじんじゃ) 須磨区権現町1丁目3-2

證誠神社

永延元年(987年)、紀州熊野権現を勧請し、妙法寺川沿岸の五ヶ村の氏神として祀られた。一条天皇の時代に創建。須磨遷都の際には平家一門からも崇敬を受けた。江戸時代には、須磨聖霊大権現と称され、地域の総鎮守として栄えた。

明治6年に「村社」同14年に「郷社」に列格される。*6)

 

だから、御朱印も「権現宮」と書かれているのですね。

 

☆この神社の駐車場が、鳥居の股をくぐって入るのにビックリ!

普通、鳥居の真ん中は神様が通られるので、私たちは端を遠慮して通るものだと思っていたので、通ってよいものかどうか迷いました。でも、通って入りました(笑)

 

 

西須磨(4寺社)

須磨寺・綱敷天満宮・現光寺・関守稲荷神社

 

鎮守神須磨寺 須磨区須磨寺町4丁目6‐8

正式名は上野山福祥寺(じょうやさんふくしょうじ)

仁和二年(886年)に、光孝天皇の勅命により、聞鏡上人が現在の地に上野山福祥寺を建立された。

南北朝時代から江戸時代にかけて歴代住職が書き継いだ、歴代(県指定文化財)によれば、本尊聖観世音は嘉応元年(1169年)源頼政が安置したとある。*7)

 

西須磨村は、須磨寺門前町として栄えた村で寺院と神社が生活の中心でした。

今でも、毎月20日の「お大師さん」や春と秋のお彼岸には多くの人が参拝し、山陽電車須磨寺」駅から参道を通る商店街や、山門までの道には露店が並び大勢の人で賑わい、境内でもたくさんの露店が出ています。

高校時代、私の通学路だったので「お大師さん」の日は、帰りに店をのぞきながら帰るのが楽しみでした。

 

過去ブログで、西須磨村の4社を紹介していますのでご覧ください。

poko2023.hatenablog.com

 

 

ここまで来て、どうして須磨区にはこれ程寺社が多いのだろう???と疑問に思い、Copilotに聞いてみました(笑)

理由を5つ挙げてくれました。

 

①【交通の要衝だったため】
  須磨は古代から山陽道の要地で、摂津と播磨の国境に位置。

  旅人や武士が往来する場所であり、道中の安全祈願や宿場の守護のため寺社が建立

  された。

 

②【 景勝地・歌枕としての信仰】
  須磨の浦は『源氏物語』や和歌に詠まれた名所。

  白砂青松の景観は神聖視され、自然信仰と結びついて神社仏閣が集中した。

 

③【源平合戦の舞台】
  一ノ谷の戦いをはじめ、平敦盛熊谷直実の逸話などが須磨に集中。

  戦没者供養や武運祈願のため、寺社が建立・再建された。

 

④【皇室・武家の祈願所】
  須磨寺福祥寺)は光孝天皇勅願寺として創建され、

  源氏や平家ゆかりの地でもある。

  こうした勅願寺や祈願所が村の鎮守的役割を果たした。

 

⑤【文人墨客の訪問地】
  平安以来、須磨は源氏物語のゆかりの地で、文学的聖地として歌碑・句碑が多数建 

  立。文化的に寺社が支えられ、参詣や観光の場としても発展した。

 

なるほど!納得! !(^^)!

 

☆☆☆

須磨区の村々すべての鎮守神を回ることは叶いませんでしたが、この日は晴天に恵まれとても気持ちの良い気分で、お参りできて幸せな気分になりました。

ご利益、頂けたら嬉しいです。

 

参照資料

*1)神戸市須磨区:須磨区のみどころ(神社・寺院)

*2)祇園神社|車 大歳神社

*3)五社神社|兵庫県神社庁 神社検索

*4)歴史と由来 - 多井畑厄除八幡宮 公式ホームページ

*5)神社の由緒 - 板宿八幡神社

*6) 神戸市須磨区の権現宮證誠神社|須磨のごんげんさん|お宮詣り|厄除け

*7) 須磨寺について 須磨寺縁起|大本山 須磨寺

 

 

いいね。やっぱり神戸が好き。

もっと KOBE ずっと KOBE

ではまた次回をお楽しみに

 

異国の地に眠る外国人に捧ぐ

今回は、外国人居留地とともに深い関係がある外国人墓地を紹介しようと思う。現在、神戸の外国人墓地は再度(ふたたび)公園の中にある。トアロードから再度山ドライブウェイを登って、再度公園と外国人墓地を目指します。曲がりくねっていて、急勾配のところもあるので安全運転で。再度山ドライブウェイは、昔オートバイ事故が多かったので、今でもオートバイは通行禁止になっている。安全運転で20分ぐらい山道を登れば、再度公園に着きます。

(森林植物園行きの 25系統の路線バスもこのルートを通るが、4月~11月の土日のみの運行なので、時刻表と合わせて事前に確認を)

 


公園の奥の方に進むと無料駐車場がある。

季節によっては公園入口付近も無料駐車場になる


駐車場にクルマを停めて、公園に向かうと大きな修法ヶ原池(しおがはらいけ)が見えてくる。(子供の頃は「ショーガハラ」と呼んでいた)この修法ヶ原という名前は、弘法大師が中国に渡る前に修行を積んだ地であることから付いたそうです。ちなみに再度山は弘法大師が中国から戻った際に再度この地を訪れたことからついた名前だそうです。弘法大師さまが再び訪れなかったら違った名前になっていたんでしょうかね。

 

修法ヶ原池での釣りは禁止です

紅葉もバッチリ。

(2週間ほど前の写真です)


公園の設備をいくつか紹介しておきます。

遊具もあるが、基本は自然を楽しむ公園かと
(左) 炭焼き小屋 (右) アスレチック遊具

 

軽く食事ができるところもあります。

風楽山荘
六甲山で育てたスギやヒノキで建てられている

ここでも六甲山の木が役に立っている。食べ物のメニューは、こんな山中にあることを考えれば、リーズナブルな価格だと思うんですが。

ボートハウスを改修したカフェもある。

Re-encounter という名前

 

では、今回のメインである外国人墓地に向かってみよう。再度公園と駐車場の間の道を北に向かうと外国人墓地のゲートが見えてくる。

(右) 道の真ん中は滑るので要注意


ゲート手前には外国人墓地についての概要を記したものがある。見学は 4月~11月の間の第4日曜日。25系統のバスの運行に合わせている。冬の期間はバスが運休なので、その期間はお休みということ。

(左) 国指定名勝の掲示板 (右) 公開見学の案内


外国人墓地の概要を簡単に説明しておこう。簡単に言うと明治維新以降、日本に関連の深かった外国人の墓地である。しかし、ここにくるまでの経緯がある。まず、明治維新と同時に神戸に外国人の居留地が造成されたことは以前のブログでも紹介した。

(外国人居留地の話はこちら)

 

横浜の外国人居留地と比べても7分の1ぐらいの狭い面積だったので、墓地は居留地の外に作られた。居留地に隣接した小野浜である。しかし、外国人の数も増え、小野浜も市街地化してくると手狭になってきた。そこで春日野墓地を第2の墓地とした。この春日野墓地というのは今の神戸労災病院のあたりで、山手の見晴らしの良い場所である。きっと昔は墓地に適していたのだろう。しかし、そこにも住宅が建つようになり、春日野墓地も手狭になってきた。そこで神戸市は都市計画の一環として外国人の墓地を再度山に移設・統合することに決める。阪神大水害や第二次世界大戦の影響で計画は中々進まなかったが、戦後、小野浜と春日野のお墓は無事に再度山に移設・統合されることになった。現在、お墓の数は 2800 以上。たくさんの外国人が、故郷ではない異国の地である神戸に眠っている。

 

概要を記した掲示板もありました

 

見学の日ではなかったので墓地の中には入ることはできないが、その周囲の展望台とか礼拝堂はいつでも訪ねることができる。

 

(左) 正面の門 (右) 礼拝堂や展望台へ行く道

門の中に入るとすぐ左に登っていく道があり、そこを登っていけば礼拝堂がある。礼拝堂の隣りには、第一次世界大戦で亡くなった外国人兵士の碑がある。

 



礼拝堂の中に入ってみる。ここは、いつもオープンになっており、外国人墓地を説明するビデオを放映している。ここでビデオを見れば、この外国人墓地ができた経緯とかがよくわかる。

 

 

礼拝堂の壁面には、歴史年表やこの墓地に眠っている主な外国人の紹介などが掲示されている。ハンター邸のハンター氏、洋菓子職人のモロゾフ氏、パン職人のフロインドリーブ氏などは神戸の人には馴染みがあるかと。以前のブログで紹介したことがある西洋スポーツの振興に貢献した A.C.シム氏もここに眠っている。

 

右が小野浜墓地の話で左が春日野墓地の話
(左) 墓地に眠る著名人の紹介
(右) A.C.シム氏 (KR&AC より)

(A.C.シム氏が西洋スポーツの振興に貢献した話はこちら)

 


礼拝堂を出て、また少し登って行くと展望台がある。ここからは、墓地全体を眺めることができる。14ha ある墓地は広い。

 

墓地は広すぎて、全体が写真には収まらなかった


外国人墓地に眠る人々のことがを詳しく書かれた本もあわせて紹介しておこう。

神戸の外国人 ー外国人墓地と華僑風俗ー
鴻山俊雄 著

 

明治維新以降、多くの外国人が居留地や雑居地に渡来し、街づくりや技術伝承や文化の融合に尽力してきた。その結果、今の「KOBE」がある。その人たちに深い感謝と敬意をもって、六甲山系の再度山において安らかに眠っていただけるよう念じたい。この外国人墓地が再度公園とともに国指定の名勝となり、神戸の歴史を伝えていく一頁になったことはうれしいことだ。

 

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ではまた次回をお楽しみに ♣︎

 

長田区の村へタイムスリップ!(その2)駒ヶ林村と駒林神社・いかなごのくぎ煮発祥の地!

前回の

長田区の村へタイムスリップ!(その1)長田村と長田神社 - もっと KOBE ずっと KOBE

続きです。

 

駒ヶ林村は、長田区の南、海のそばにありました。

今の駒ヶ林町や二葉・久保・腕塚・大橋・若松・日吉町あたりです。

 

この村の名前の由来は、諸説あります。

高麗の船が多く出入りしており

・その帆柱が林のように見え「高麗(こま)林」が訛って「駒ヶ林

・その船の出入りを「高麗返し(こまかえし)」が訛って「駒ヶ林

 

どちらにせよ海に面した村で、奈良時代から平安時代にかけての遣唐使船の出入りが大輪田泊で盛んだった時、駒ヶ林(現:長田港)で遣唐使船が船繋所として使われていました。船の駐車場みたいなものですね。

この辺りの海域は、古くから海上交通の良港として栄え、摂播五泊の一つとして数えられるほど重要な港でした。

 

平清盛厳島神社へ参詣の途中にこの駒ヶ林(記述では「小馬林」)に寄港した(1179年・平安時代と、中山(藤原)忠親の日記「山槐記(さんかいき)」に描かれています。

 

さらに、足利尊氏も1336年室町時代九州へ逃げる途中 駒林神社に参詣し、駒ヶ林の浜から船出したと伝えられています。

 

この駒ヶ林村も、大輪田泊と同じように古くから繁栄していた村だったようです。

 

今の駒ヶ林は当時と異なり、静かな漁港となり日曜以外魚市場で取れたての魚がセリにかけられています。

Google ストリートビューより

 

さて、平清盛足利尊氏などが参詣したという「駒林神社」は平安時代の頃から、遣唐使船や大陸との交易が盛んだったので、入国してくる外国人を検問する玄蕃寮(げんばりょう)という、今でいう所の税関にあたる出先機関がありました。

この場所は、務古の水門の一部にあたり古代の要津でした。


その役所内に祀られたのが、駒林神社の始まりと言われています。

玄蕃寮の仕事は、国内に災いが入り込まないように取り締まることでした。なので、その敷地内に祀られていた駒林神社は、厄災を祓う宮「厄除けの宮」として崇められています。

南側海に面した鳥居     本殿と石柱の鳥居     東側にある神社の石柱

今の駒林神社は、住宅街の真ん中に寄り添っている佇まいになっています。

そして、本当に海の側で目の前が船着き場になっています。

 

 

桟橋から、神社の鳥居が見えます!

 

久しぶりに、潮の香りと打ち寄せる波の音に出会えて癒されました。

漁船もあり、漁業で営んでいる様子が分かります。

 

そして神社の鳥居の際に、「いかなごくぎ煮発祥の碑」が建っています!

 

 

神戸っ子なら、誰もが知っていて・誰もが作れる「いかなごくぎ煮

毎年春になると、どの家からもくぎ煮を炊く匂いが流れてくるという、神戸の春の風物詩です。

そのくぎ煮の発祥の地が、駒ヶ林だとは知りませんでした💦

 

実は、垂水にも「いかなごくぎ煮発祥の地」という碑がありまして💦

 Google Search  より画像はお借りしました。 

 

垂水の「いかなご」はこませ網漁で獲れた稚魚(しんこ)でくぎ煮を作っていました。

こませ網漁とは、潮の流れに乗って移動する魚を、袋状の網を潮流に沿って設置して待ち伏せて獲る漁法

 

それに対して長田は、底引き網漁で海底に居る「いかなご」の親魚(ふるせ)でくぎ煮を作っていました。

底引き網漁とは、船からワイヤーで連結した大きな袋状の網を海底に沈め、船を移動させて網を引くことに より、海底にいる魚介類や甲殻類を獲る漁法

 

平安時代の頃より、いかなご漁はあったようですが「くぎ煮」がいつから始まったのかは定かではないようです。

 

ですが、昭和10年出版の「滋味風土記」(魚谷常吉著)の中に「釘煎」とあり、美味しいいかなごの「釘煎」を手に入れたければ、駒ヶ林の漁業組合か・垂水の魚市場にと書かれてあります。*1

戦前には、すでに馴染みの味だったのですね。

私も子どもの頃のいかなごくぎ煮は、ふるせの太いくぎ煮を食べていました。

(左)ふるせのいかなごくぎ煮 https://zako-akashi.shop-pro.jp/?pid=162359407               
(右)新子のいかなごくぎ煮 https://store.shopping.yahoo.co.jp/bouze-karasumi/ik-0100.html
* シーズンOFFの為、画像はネットからお借りしました。

 

最近では、しんこサイズのくぎ煮が主流になっているように思われますが、ここ数年不漁で庶民の手に届かなくなっており、寂しい限りです。

 

さて、この駒林神社には古くから伝わる「左義長祭り」というけんか祭りがありました。火祭りの一種で、988年(平安時代)に宮中行事を模して始まったとされています。毎年1月15日に行われ、三基の「お山」の内二基が東西に分かれ、漁場を巡って地引網の網入れの優先権をかけ、10mの高さの「お山」を、100人ほどの漁師が担いで浜辺で倒し合いをする祭りはその年の漁獲が掛かるけんか祭りでした。

駒林神社が、その東西に真ん中にあったため行司役を務めたそうです。

 

ただ、浜が埋め立てられたことなどから1959年(昭和34年)を最後に途絶えました。1993年に神戸市のイベントとして1度復活したことがありました。*2)

 

34年ぶり復活 駒ケ林左義長(番外編) | 深デジ | 神戸新聞NEXTより画像をお借りしました。


こうして長田区の村をタイムスリップしてみてみると、神戸の街は古くから港と関係して繫栄していたことがよく分かります。

 

 

参考資料

 

*1)「いかなごのくぎ煮発祥の地」石碑除幕式 | 株式会社伍魚福 代表取締役社長 山中勧ブログ

*2)長田にも「けんか祭り」? イカナゴ漁の順番競う | M's KOBE - 神戸新聞NEXT

 

 

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ではまた次回をお楽しみに♥

 

クリスマスを待ちながら楽しむ シュトーレン!2025年

 日本のクリスマスの定番になっているドイツの伝統菓子のシュトーレン。まだ11月中旬ですが、もう販売が始まっていたり、注文が締め切られているお店もあります。
いつの間にやら、大人気になったシュトーレンにはクリスマスケーキのような華やかではないけれど、アドベントに入り薄く切って、少しずつおやつにいただくのが楽しいお菓子です。

 今年も美味しいシュトーレンをご紹介します。

 

mont plus(モンプリュ) シユトーレン

中央に薄く延ばしたマジパンが入っていて、オレンジ風味が特徴


林シェフが作るお菓子で人気のモンプリュは、元町の南の海岸通りにお店があります。Cafeやお菓子教室のスタジオも併設されていて、ステキなスポットです。

販売期間:11/1(土)~12/25(木)*無くなり次第終了

★パティスリー モンプリュ 本店★
〒650-0024 神戸市中央区海岸通3-1-17
TEL & FAX: 078-321-1048

 

BOULANGERIE PAUL BOCUSE (ブーランジェリー ポールボキューズ)

ショコラ・シュトーレン 中央にあるのは栗ではなく、マジパンでチョコ好きにおすすめ

大丸神戸店に入っている、パンの「ブーランジェリー ポールボキューズ」。
プレーンなタイプもあります、小ぶりなのでショコラと食べ比べしても楽しい。

★大丸神戸店/ブーランジェリー ポールボキューズ★
神戸市中央区明石町40番地
078-335-0828
※店舗はこのほかにもあります

TOOTH TOOTH(トゥース・トゥース)シュトーレン

封を開けると芳醇な香りが漂い、ナッツやレーズンが甘く口の中に広がります


 この商品は店販売のみですが、ONLINEで別の種類のシュトーレンが販売されています。

 トゥース・トゥースは、お菓子だけでなく包装までもデザインが凝っていて、渡した瞬間に喜ばれます。シュトーレンも黒っぽいのとアイボリー(写真)の2種類の包装紙がありました。

★PATISSERIE TOOTH TOOTH 本店★
神戸市中央区三宮町1丁目4-11ラティス三宮 1F/2F
TEL 078-334-135
※店舗はこのほかにもあります


FREUNDLIEB(フロインドリーブ) シトーレン

ずっしりとして、バターの風味をしっかり感じるシンプルだけど忘れられないおいしさ

 予約は終わっていますが、店頭販売はまだ購入できます。
本店の生田町のお店は、旧神戸ユニオン教会をリノベーションして作られていて、2階のCafeは天井が高く広々とした空間を楽しめます。これからの時期ははクリスマスの飾りがステキです。

★フロインドリーブ 本店 SHOP&CAFE★
〒651-0092 神戸市中央区生田町4-6-15
078-231-6051
※店舗はこのほかにもあります。

販売がこれからのおすすめシュトーレン

LE PAN( ル・パン)の「クリスマス シュトーレン
販売:2025年12月1日(月)~
3年ぶりぐらいの販売で、嬉しい~!
「福寿 純米吟醸」に漬け込んだドライフルーツが美味しい!

★ル・パン総本店★
〒650-0041 神戸市中央区新港町1-12 ラスイートルパンビル1階
TEL:078-391-7777

DONQ(ドンク)
シュトーレン」はもう販売されています。
 販売:2025年11月1日(土)~12月25日(木)
 マジパン入りの安定のおいしさ
「栗のシュトーレン
 販売:2025年12月5日(金)~ 
 シュトーレンというより、栗の目の詰まったパウンドケーキって感じ。
 ごろっとした栗が入っていて、シンプルな美味しさが楽しめます。

★ドンク 三宮店★
神戸市中央区三宮町2丁目9番6号
078-391-5481
※店舗はこのほかにも全国にあります。

シュトーレンの食べ比べが出来るイベント情報

シュトーレン クリスマス」
神戸阪急
●11月26日(水)~12月2日(火)
●本館地階 フードステージ
〒651-8511 神戸市中央区小野柄通8丁目1番8号
三宮駅各線からすぐ

昨年の情報ですが、いろんなお店のシュトーレンが販売されていました。
一切れサイズの販売もあり、手軽さがうれしい。
ただ人気があり、ものすごく混むのでその心づもりで行ってくださいね。

ご注意!
商品の情報は、店員さんに聞いたものが主なので、お店の情報は事前に電話で確認してくださいね。
また、シュトーレンはちょっとお高めなので、価格も確認してから注文してくださいね。

 

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ではまた次回をお楽しみに♦

 

六甲山材へのこだわり、棚の製作【最終回】

いよいよ棚製作の最終回です。

初回は製材屋さんから購入した原木を板に加工するところ、中盤では板材をハギ加工して幅広の板材を作るところを紹介しました。

poko2023.hatenablog.com

poko2023.hatenablog.com

最終回では板材を組み立てて棚にする工程を紹介する。

 

■棚の背面にベニア板を張るための溝加工

5mmの溝を作るために、丸鋸の歯の出具合を5mmに調整する。試し加工をしてノギスで深さを確認する作業を何回か繰り返す。溝加工は棚の天板、底板、側板2枚に行う。丸鋸の歯幅は3mmなので2.5mm程度ずらして5.5mmの溝に加工。

 

右写真のハンドルを回して左写真の丸鋸の歯の出具合をを調整

 

■組み立て方法を検討

底板と側板、天板と側板を直角に貼り合わせるために板のハギ加工と同様のビスケットを用いる方法とダボを用いる方法を検討し、簡単なビスケットを用いる方法にした。ダボの場合は穴加工の精度が重要になるので手間がかかるからだ。

また、棚板を固定にするか、可動にするかも迷ったが、棚板の位置を変えることはほとんど無いと考えて、固定にすることにした。

■組み立て用にジョイントカッターでビスケットの溝加工 32箇所

今日はジョイントカッターの失敗が多かった。溝深さ調整ボルトが動いているのに気が付かず、浅い溝になってしまった。加工前に確認が必要なことを学んだ。また、溝の位置(基準面からの高さ)調整が上手く出来ていなかったので溝が板の中央じゃなく偏った。これまでは機械の調整はラボの責任者の野口さんがやってくれていたのでうまく作業が出来ていた。失敗をして初めて準備作業の重要さがわかる。

ジョイントカッターの調整、溝深さ調整(中央)と高さ調整(右)

■組み立て工程

組み立ては1)棚板と側板→  2)底板の接着 → 3)背面板の挿入 → 4)天板の接着の順で行った。

1)棚板と側板の接着

初めはクランプを使わずにやろうとしたが、2枚の棚板を同時に組み立てていくのは1人では到底出来ない作業でパニックに陥った。考え直して棚板を一枚ずつクランプを用いて固定してなんとか出来た。

2)底板の接着

底板に接着剤を塗りその上に棚板を組んだものを載せる。ビスケットをピッタリはめ込んで棚板部分の重量で仮に固定。

3)背面板の挿入

背面板(5mmベニア板)を溝に滑り入れるつもりだったが、溝幅と板厚がぴったりすぎて簡単に入らなかったのでトンカチで叩きながら入れていった。板厚5mmのベニアだったので5.5-6mmの溝を作ったが、7mmの溝でも良かった。この感覚も経験しないとわからない。

4)天板の接着

最後に天板のビスケットをはめ込んで接着、クランプで上下に締め付けて固定。

 

上下左右をクランプで固定して接着

 

■棚の完成

仕上げのサンダ掛けとオイル塗装が残っているが、とりあえず形を完成することが出来た。段差ができてしまった所はあるが、カンナにより修正を行う。自己採点で90点、上手く出来たと思う。

何の変哲も無い箱型の棚だけど苦労した分だけ愛着が強い



木目が綺麗。六甲森林植物園で育ったヒマラヤスギがこんな形で再利用。

■今回の棚製作を振り返る

(良かったこと)

・木工工房六甲山クリエイティブ・ラボを見付け、責任者の野口僚さんと出会ったこと。野口僚さんは木材や木工について詳しくたくさんのことを教えてもらった。

・原木から板材を作る体験が出来て製材の全体像を知ることが出来た。六甲山の木材で家具が作れることなど想像もしなかったが実現出来た。

・六甲山材にこだわって棚を製作して、手間と時間はかかったが効率化とかコストでは測れない価値を感じることが出来た。DIYの深みにはまり込んでこれまで以上に楽しさを感じた。

(学んだこと)

・普段使うことない機械(帯鋸、プレーナー、精密な丸鋸など)の使い方を習い、精密に家具を製作するコツを掴んだ。

・ハギ加工の難しさを体験し、初期に素材を精度よく加工することとクランプをうまく使いこなすことの重要さを知った。

(謝辞)

・野口僚さんをはじめスタッフのクリエイターの方々に感謝する。親切な対応、生き生きした仕事への取り組みに接して楽しく作業が出来た。

 

■KOBE WOODについて

2025年6月1日より、神戸産の木材に関するブランド「KOBE WOOD」が誕生した。神戸産木材を使った家具や小物製品にロゴを付けることができる。

神戸の森林・里山・まちを未来につなげたいと願う一人一人の取り組みが積み重なり、波紋のようにどこまでも大きくなって広がっていく、そんな想いが込められているようだ。「KOBE WOOD」の他地域に無い特徴として、立っている木にも「KOBE WOOD」の利用を認め、自分の木が成長して伐採された後も家具やベンチ、小物に加工されて「KOBE WOOD」のブランドを利用できるようだ。まさに何十年の期間に及ぶサーキュレートエコノミーの取り組みだと感じる。素晴らしい取り組みだ。

今回製作した棚にもぜひKOBE WOODのロゴを付けたいと思う。

 

■番外

10月23日には二十四節気の一つ「霜降(そうこう)」に合わせた恒例行事で六甲山小学校でストーブ火入れ式が行われた。六甲山では一足早く冬を迎えようとしている。紅葉も始まりあちらこちらに赤や黄色の葉っぱを見かける。シャキッとする寒さが気持ちを引き締める。

 

六甲山小学校での火入れ式(神戸新聞NEXTより引用)

いいね。やっぱり神戸が好き。

もっとKOBE ずっとKOBE

ではまた次回をお楽しみに♠️

 

長田区の村へタイムスリップ!(その1)長田村と長田神社

「長田」という地名の由来は、弥生時代から農耕社会が発展していて神戸地域で最も広く長い田の広がる地域、という所からこの地名が起こったようです。

この地名は、日本書紀にも記されているので奈良時代以前にさかのぼる地名ということになります。(参照資料★P5)

 

安土桃山時代にあったという、長田区の村は七つ!

長田村・池田村・西代村・駒ヶ林村・東尻池村・西尻池村・野田村

 

地図にするとおおまかに、こんな感じに区割りされていたようです。

フリーハンドで境界線を引いたので、キレイに引けず申し訳ありません。

 

 

そして、それぞれの村には

神社があり人々が大切にお祀りをしていました。

 

長田村:長田神社(長田区長田町3丁目1−1 )

池田村:池田祇園神社(長田区池田寺町7)

    天照大御神(長田区池田宮町35)

この二つの神社は、同じ由緒書きです

 

東尻池村:射場八幡神社(長田区東尻池町1 - 14 - 4)

かつては東尻家村と西尻池村は、併せて「真野」と呼ばれていたので真野地域で射場八幡神社を祀っていたものと思われます。

 

~ 以上の神社は、今「長田神社」が管理しています。~

 

西台村:高取神社(長田区高取山町103−7)

    五位の池神社(長田区五位ノ池町4丁目7−6)

* この二つの神社は独立して存在しています。

 

駒ヶ林村:駒林神社(長田区駒ケ林町3 - 7 - 3)

野田村:幸殿社(長田区野田町7-7-1)

駒林神社が管理しています。

 

本当に昔の日本人は、信心深かったようですね。

 

 

長田神社

この神社の歴史は、古い!

創建が、西暦201年! なんと、日本書紀に出ている。

その中で、神武皇后が「長田の国に我を祀れ」という信託を受けて創建したと、伝えられています。

 

長田は弥生時代から発展してきた農耕社会で、人々が豊作を祈り信仰の対象としたのが長田神社でした。(参照資料★P6)

 

社格は、官幣中社

 

因みに全国で官幣中社は23件しかなく、そのうちの3件が神戸市内にあります。

 

生田神社中央区)・長田神社(長田区)・海神社垂水区

 

一番多いのは、当たり前ですが古都・京都市の5件でした。

神戸市は、2番目に多いのです。スゴイですね!

昔は神社を11段階にランキングしていた!国家神道の名残・社格制度を紹介 | 歴史・文化 - Japaaan - ページ 2

より

これも、大輪田泊という港が古くからあったおかげです。

 関連ブログ 1)・2)・3)・4)

 

今回は山陽電鉄で「高速長田駅」から向かいました。

地下の駅から地上に顔を出したところの交差点に

「式内 長田神社」の石柱が立っています。

この「式内」とは、10世紀初頭にまとめられた「延喜式」の「神名帳」に記載された神社のことで、朝廷の管理下にある官社として認められていました。(by AI)

長田神社は、そういう神社だったのですね。

官幣中社」という神社格は、明治になってから与えられた社格ですが「式内」を見ると、古さというか有難さが伝わってきました。

 

神社の中はこんな感じになっています。

 

①西鳥居          ②手水          ③本殿

ここの手水がとてもユニークで、四方八方から使う事が出来るようになっています。

人が近づくと水が流れるセンサーが付けられていました。ハイテク!(笑)

 

そして見取り図 の「高取山遥拝所」があります。

私の育った家が、高取山の登山口にありました。

そしてその高取山の山頂には「高取神社」があり、これまた長田神社と同じほどの歴史のある神社です。江戸時代の終わりころには、西代村の鎮守神氏神様として敬われており、明治以降境内の整備が整うと崇敬者は激増したという神社です。

高取山の頂上にあり、子どもの頃に何度か登ったことはあるのですが、今はとても行く自信が無いので、この遥拝所に手を合わせ「無事にここまで過ごせている感謝」の気持ちを伝えました。

高取神社            遥拝所         神撫山遥拝所

*高取神社の写真は 高取神社|兵庫県神社庁 神社検索  お借りしました

遥拝所板に「神撫山」とありますが、古く昔は高取山を神撫山(かんなでやま)呼んでいました。神様が撫でる山…なんて、とても有難すぎる名前だったのですね。

そんなこと何も知らずに。大きくなりました💦

 

境内には色々な末社が祀られています。

すべて登録有形文化財です

そして、長田神社といえば…

大楠!(神戸市指定の天然記念物)

東の鳥居を入ったところにそびえ立っています

 

長田は

「長田の国」(弥生時代

  ⇓

「長田郷」(平安時代前期★P15)

  ⇓

「長田村」(安土桃山時代★P30 )と名前が変遷しています。

 

元禄3年(1690年)八部郡内村々書出帳に

中ノ庄長田村が、戸数141軒・人口618人(男293・女325)

という記録が残っています。★P35

単純に割り算をしてみたら、一軒当たり4人家族となりました。

現代と変わらない家族構成だったのかな?と思うと、親近感がわいてきます。

 

そして、長田村の村人たちが氏子となって、長田神社の重要な神事を支えてきました。

約650年前から神社で行われている「追儺式(ついなしき)」は、神の代理を務める鬼役などのすべてが長田村の氏子に限られています。

鬼役を務める七人は、基本長男として生まれた人だけが務められます。

画像は 長田神社古式追儺式 | 長田神社 よりお借りしました。

追儺式の神事の内容も、併せてご覧ください。

神社と氏人たちによって貴重な神事が、室町時代から今に至るまで七人の鬼が厄を祓い続けているという、神々と人々との結びつきのとても強い祭りです。1)

 

 

自分が生まれ育った所ということもあり、熱くなりすぎ長くなって仕舞いました。

続きは次回へ持ち越します。

次回は、駒ヶ林村と駒林神社です。

 

参照資料

★ https://www.city.kobe.lg.jp/documents/21294/nagata-history.pdf

1)https://okumiya-jinja.com/interview/interview009/

 

関連ブログ

1)はじまりは兵庫津(ひょうごのつ)から - もっと KOBE ずっと KOBE

2)江戸時代の神戸 ☆ 酒・物流・兵庫の津・参勤交代・本陣 - もっと KOBE ずっと KOBE

3)鎌倉時代の神戸の栄光・奈良の大仏の修復にも一役買う!そして、日宋貿易と新仏教 -

もっと KOBE ずっ と KOBE

4)平安末期の神戸☆平清盛により繫栄する❕ - もっと KOBE ずっと KOBE

 

 

いいね。やっぱり神戸が好き。

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ではまた次回をお楽しみに♥

 

北野さんぽ 美術館のようなシュウエケ邸

 三宮の山手、北野町のすぐ南に異人館通りと呼ばれる東西の通りがある。
その通りに仲良く並ぶ、2件の異人館

左が「旧門兆鴻邸(きゅうもんちょうこうてい)」で左が「シュウエケ邸」、ともに設計者はアレクサンダー ネルソン ハンセル(Alexander Nelson Hansell)。この近くでは「萌黄の館」(小林家住宅)、長崎の香港上海銀行や京都の同志社「ハリス理化学館」など数々の名建築が今も残っている。
※「旧門兆鴻邸」を「旧ディスレフセン邸」、「シュウエケ邸」を「旧ハンセル邸」と記述していることもあります。
この度は、右の「シュウエケ邸」を訪ねてきました。

 公開されている異人館の多くは、神戸市などが所有者から買い取っていることが多いのですが、ここシュウエケ邸は今なおシュウエケ家が所有されています。

シュウエケ家の紋章 ユニコーンは優雅さと純粋な心、ライオンは力・コミットメント・決意を表す

 この館は1896年にハンセル氏によって建てられ、しばらくはハンセル氏自身が住んでいました。(2階のベランダで撮った、娘さんの結婚式の写真が残っています。)
その後の1945年の神戸空襲を乗り越え、戦後はアメリカ兵の住居、スイス領事館、造船会社として利用され、1954年にユダヤ人貿易商のエズラ・シュウエケ氏が所有することになります。それから今日に至るまでシュウエケ家がこの館を守り続けています。


 この館のスゴイところの1つは、約130年前から現存している事や建築家ハンセル氏の様々な試み(様式の組み合わせ)が見られること。ガイドブックには「技の宝庫」とも書いてあります。
 私の感動は、美術館のような絵画の数々が手の届くところに飾られていること。
スタッフに『こんなに展示して大丈夫ですか?』と聞いてしまうほど。この館を引き継いだエズラ・シュウエケ氏の息子さんたちの意向で、近くで鑑賞できるようにしてくださっています。


現在は公開しているだけでなく、映画(ドラマ)撮影、結婚式、フォトウエディング、個展、ミニコンサート、パーティー、フォトイベントとしてレンタルすることができます。
季節がよくなって来たので、「北野さんぽ」をお楽しみください。

お庭から見るシュウエケ邸、右に旧門兆鴻邸も見えます。

シュウエケ邸
〒650-0003 神戸市中央区山本通3丁目5-17
TEL 078-221-6126
https://choueke.jp/

三宮からだと坂を上って行くので、市バス「7系統」を使うのがおすすめ。
「山本通3丁目」で下車して山の方へほんの少し歩き、右手方向の信号を渡って歩いていくと「シュウエケ邸」が見えてきます。

いいね やっぱり神戸が好き

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ではまた次回をお楽しみに♦

 

兵庫区の神社仏閣に感動!清盛七辨天と兵庫七福神

今回は、兵庫区をタイムスリップ!

元禄時代の、兵庫区あたりの古地図

 

コレクション詳細 - 神戸市立博物館 より

 

ここに描かれている地図から、元禄時代の神社仏閣を拾い出してみました。

(字が読めなかったものは省略)

【神社】弁財天・八王子・天神・八幡・七宮大明神・えびす

【寺】西光寺・恵林寺・福厳寺・久遠寺阿弥陀寺・真光寺・長楽寺真福寺能福寺漢福寺・薬仙寺

 

そして今尚残っている神社仏閣は、驚いたことに「八王子・長楽寺・漢福寺」の三つ以外は全て、現存していました!

【神社】                                   弁財天 ➡ 現・真光寺(兵庫区松原通1ー1ー62)

天神 ➡ 現・柳原天神社(兵庫区東柳原町1ー12)

八幡神社 ➡ 現・湊八幡神社兵庫区兵庫町1ー4ー37・旧湊町1丁目)

七宮大明神 ➡ 現・七宮神社(兵庫区七宮町2ー3-21) 

えびす ➡ 現・柳原蛭子神社兵庫区西柳原町5ー20)

【寺】

西光寺(兵庫区湊川町9ー2ー16)/ 恵林寺兵庫区兵庫町2ー2ー1)

福厳寺(兵庫区門口町3ー4)/ 久遠寺兵庫区門口町4ー5)

阿弥陀寺兵庫区中之島2丁目)/ 真光寺(兵庫区松原通1ー1ー62)

真福寺兵庫区下沢通1ー2ー2)/ 能福寺兵庫区逆瀬川町1ー39)

薬仙寺(兵庫区今出在家町4丁目)

 

さすが、港で栄えた町だけに神社仏閣を手厚く祀る信仰心は揺るがず、現代まで存続していますね。

 

さてこの兵庫区には、遠く奈良時代に開かれた「大輪田の泊」後に平清盛が改良を加えた「兵庫の津」があります。

この「兵庫津」は、江戸時代には西国各地から大坂入りの船舶の寄港地としてにぎわっていました。山陽道もこの地へ迂回して通り、海運と陸運の結節点ともなっていた。1826年この地を訪れたシーボルトは兵庫の町について「16の町があり1万6千人が住み、そばに港があって活気がある」と述べています。港の様子は「港内には絶えず非常に多くの大小の船舶が停泊し、郊外には数え切れないほどの船が大阪に向かっていくのが見える」「世界中を探しても、ここほど船舶が往来している水域はない」との感想を残しています。当時の外国の人の眼にも非常に繁栄した港町だったことが分かります。*1)

 

兵庫津の前身、大輪田泊平清盛が経ヶ島を築いたとき、安芸の宮島厳島神社勧進していて宮島にある七つの海岸に因んで、この兵庫の地に七つの弁財天を祀りました。それが「清盛七辨天」です。

 

☆弁財天とは

財運・芸術・学問・恋愛成就など、様々な面で人々を支える女神のこと。

 

その【清盛七辨天】を巡ってみました。

 

① 安全辨天 = 和田神社 (兵庫区和田宮通3ー2ー45)

     

最初に訪れた、和田神社に度肝を抜かれてしまいました💦

この神社を訪れたのは初めてですが、この和田岬という場所には子どもの頃からよく通っていた場所でした。その当時のこの辺りは、ゴチャッとした工場地帯といった感覚しかなく、歴史など全く興味のない子どもだったので仕方がないのですが・・・

こんなに大きく広々とした開放感のある、立派な神社があるとは全く知りませんでした。私の心を大きくつかんだ神社となりました。

御朱印を頂いてきました。

 

② 音楽辨天 = 真光寺(兵庫区松原通1ー1ー62)

   

琵琶を弾く姿から、音楽・芸能・弁舌・学問、豊穣や財宝をもたらす弁財天です。

 

③ 勉強辨天 = 済鱗寺(兵庫区兵庫町2ー1ー38)

  

なるほど!瞼のない魚にあやかって、寝ないで勉強で勉強辨天!(笑)

 

④ 運動辨天 = 恵林寺兵庫区兵庫町2ー2ー1)

   

運動辨天、別名「波除辨天」とも言われ、特にスポーツの成功や上達を願ってお参りする人が多いようです。「波に乗れるように…」の願いも込められているようです。

 

⑤ お洒落辨天= 兵庫厳島神社兵庫区永沢町4ー4ー21)

 

この神社は、毎年2月8日に針供養をしていることから、裁縫上手 =お洒落につながり、お洒落辨天と呼ばれるようになったのかな?

 

https://youtu.be/j1-ovTa0QtQ?si=mwic_f88_NL6Yk5N より

 

⑥ 健康辨天 = 花隈厳島神社中央区花隈町6ー5)

ここだけ、兵庫区から外れ中央区ですが清盛七辨天に含まれるので、参加させました。

  

鳥居の額に「神戸最初初船場鎮座」と書かれている所から、屈強な海の男たちにあやかって、健康になれるよう祈るそうです。

 

⑦ 恋愛辨天 = 氷室神社(兵庫区氷室町2ー15ー1)

1800年の歴史のある氷室神社は、市杵島姫命という恋愛辯天を祀っています。清盛七辨天を巡った中で、ここほど弁天様をイチ押しで祀っているいるところはありませんでした。ご利益がありそう・・・💛

目立たない、山奥へ行くかのような細い道の先にあります。境内には、弁天様へ恋愛成就のお手紙を書く用紙が用意されていました。

 

  

 

 

七辨天なので、ここで終わりのはずですが、清盛七辨天巡りには、下記の二か所が加えられ9つとなっています。

 

 松王丸君 = 来迎寺(兵庫区島上町2ー1-3)

すぐ前が、兵庫の津という立地条件! 築島建築を語る時、涙失くしては語れない松王丸の話。ここに手厚く祀られ、約850年経った今尚手を合わせに来る人がいます。

 

 

 清盛君  = 能福寺兵庫区逆瀬川町1ー39)

平相国廟(平清盛廟)

能福寺には、平清盛墓所として平相国廟が作られたといわれています。平相国とは、平清盛位号太政大臣の別称のことで、清盛に与えられた敬称です。

 

 

次に【兵庫七福神も巡ります。

 

古くから兵庫の津という港で栄えた兵庫区ですが、西国街道の要でもあり、陸路や海路を通じてたくさんの神様が集合したといわれています。

昔から兵庫七福神巡りは、人々の間で受け継がれ今も福運とご利益を願ってお参りする人が絶えません。

 

弁財天 = 和田神社 (兵庫区和田宮通3ー2ー45)

インドの「サラスヴァテイ」という水と知恵、学問・音楽の女神で、日本に伝わってからは、知恵や財運・恋愛成就の女神として祀られている。

 

寿老人 = 薬仙寺(兵庫区今出在家町4丁目)

 

 

長寿を授ける神様。

その姿から、知恵授け・延命長寿・身体健全・富財・福徳円満・家庭円満・厄払いといったご利益がある。

 

福禄寿 = 真光寺(兵庫区松原通1ー1ー62)

長寿と人望のご利益がある神さま。「福」幸運・「禄」高給・「寿」長寿につながるといわれている。

真光寺には、福禄寿の像がご本尊と並んで祀られていました。

 

毘沙門天= 能福寺兵庫区逆瀬川町1ー39)

能福寺といえば、兵庫の大仏さんで有名なお寺です。

そこに、毘沙門天が祀られています。どうやら、ココの毘沙門天さまは秘仏だそうでお目に掛れません。ただこの秘仏の作者は、高村光雲だそうですよ。

お目に掛りたかった。残念!

別名「多聞天」といい、全てのことを一切聞き漏らさない知恵もので、勝運の神さま・仏法を守護し道徳を授ける神様として信仰されている。

 

布 袋 = 柳原天神社(兵庫区東柳原町1ー12)

 

写真の布袋様は、後列右から二人目に立っておられます (^^)

 

布袋さまは、度量の広さや心の大きい神様で、財運・夫婦円満・子宝・無病息災・商売繁盛・開運・良縁などのご利益があるとされています。

 

蛭 子 = 蛭子神社兵庫区西柳原町5ー20)

地元では、「柳原のえべっさん」と呼ばれ親しまれています。

 

蛭子とは、 恵比寿様のこと。

釣り竿と鯛を抱えている姿から、豊漁と航海安全の神さまとして祀られています。また、船の出入りでみなとは商売繁盛するので、商売繁盛の神様としても知られています。

 

大黒天 = 福海寺兵庫区西柳原町10ー10)

 

本堂に祀られている大黒天が、真っ黒でその表情は憤怒! 

私の中の大黒様は、「大きな袋を肩にかけ、大黒様が来かかると~」の童謡にある、ふっくらとして優しげな出で立ちなのが、真逆の姿にビックリ! インド発祥の大黒様は、元々は青黒い身体で憤怒相をした怖い神様だったそうです。なので、祀られているお姿が正しいのです。でも、本堂の外には丸みを帯びた愛らしい大黒様もいて、心が和みました。

 

俵に乗っていることから、「ご飯を備えてお参りすると、一生食べることには困らない」といわれ、食堂や台所に祀られることが多いです。

 

 

これで、私の「清盛七辨天巡り」と「兵庫七福神巡り」は終わります。

 

回ってみて感じたのは、大切に密やかに祀られている弁天様や七福神があったり、大っぴらに、堂々と正面を切って祀られている弁天様や七福神がいたりして、その差はどこから来るのかが疑問に残りました。

 

また、機会があれば調べてみたいと思います。

 

皆さんも一度、清盛七辨天・兵庫七福神巡りをしませんか?

車で、ルートを上手に選べば半日ほどで回り切れます。

私は、和田神社からスタートしました。

 

https://www.hyogo-ebisu.com/syokai/shichifuku.php

 

 

それにしても、兵庫区というのは今とは違って、平安時代以前から港で栄えた一大都市だったので、神社仏閣も町の繁栄と同じく、人々の信仰のよりどころとして大切に扱われ、現代にまで引き継がれている様子に感動を覚えました。

 

 

いいね。やっぱり神戸が好き。

もっと KOBE ずっと KOBE

ではまた次回をお楽しみに♥

 

 

*1)引用 ひょうご歴史の道 〜江戸時代の旅と名所〜

 
参照・引用・出典元
 
関連過去ブログ
江戸時代の神戸 ☆ 酒・物流・兵庫の津・参勤交代・本陣
 はじまりは兵庫津(ひょうごのつ)から
 
 
 
 

 

六甲山材へのこだわり、棚の製作【製作編前半】

六甲山材にこだわって棚を製作する。その記録をブログにまとめようと思う。前半として、六甲山クリエイティブラボに於いて原木から板取りをして板材にする製材作業の様子を記録する。

六甲山クリエイティブラボ

六甲山材の原木手配については以前のブログを参照。

poko2023.hatenablog.com

 

棚の扉には六甲山材のエノキと棚本体にはヒマラヤスギ(森林植物園産)を利用することにした。製材所の三栄さんが保有する乾燥を終えた原木の中から加工性や家具としての適性を考えて決めた。原木は50mm程度に製材されているので経済性を考えて18mmの板材を2枚切り出すことにした。エノキは木目がはっきりしてユニークな製品ができそうだ。ヒマラヤスギは加工性が良さそうで甘い香りが印象的。もちろん木目も美しい。

左:エノキ(中央の白みがかった木材)   右:ヒマラヤスギ



🔳木取り
できるだけ捨てる部分が無いように木取りを行う。長手方向には最終寸法プラス50mm〜100mm程度の余裕を、幅方向には最終寸法プラス10mm〜20mm程度の余裕をとることにする。原木にマジックインキで木取りをけがく。

原木にマジックでケガいて横方向はジグソウで切断

🔳板の荒加工
横方向はジグソウで切断して、縦方向は帯鋸(オビノコ)で切断する。帯鋸では
①原木を機械に載せてけがき線に合わせて切断
②切断した面をガイドに沿わせて切断板幅120mm程度に切断
③切り出した木材を立ててガイドに沿わせて厚み方向に切断して約20mmの板材にする
帯鋸は鋸刃のテンションを設定してぶれないで安定して回転することを確認し、注意しながら原木を送る。回転する鋸刃の横には手をもっていかないように注意。

帯鋸 木材をガイドに沿わせて20mm程度に切断

切断を終えた木材

 

🔳板の精度出し

プレーナー(電動カンナ)により寸法出しを行う。手動で2面を削り、直角を出すようにする。長さ方向の反りと木目の状態を見て削る面を決める。

削り残しがなく全面が平面になるまで繰り返す。直角を出した面がどこかを後の自動加工の時にすぐに分かるように印を入れておく。手が巻き込まれないように木材を送る専用の治具を用いて慎重に作業をする。

プレーナー(手動)で2面を切削して直角を出す。

残りの2面は自動加工して寸法を出す。まず、板の幅方向を加工する。仕上げ幅110mmに対して板により120mm〜130mmぐらいにバラついているため、例えば123mmの板は119mm→115mm→113mm→111mmのように繰り返して寸法を出す。寸法を測りながら巾方向は仕上げ寸法±0.5mm程度の精度で仕上げる。

幅方向の切削により寸法を出す


次は厚み方向の加工。板材は厚みの仕上げ寸法18mmに対して20mm〜24mmぐらいにバラついているため、例えば24mmの板では22mm→20mm→19mmのように繰り返して寸法を出す。板幅があるため1回に2mm以上を削ると表面が荒れるので少しづつ削る。次工程で数枚をハギ加工(接着)して板にするのでハギ加工後に0.5mm-1mm程度仕上げるため19mmを目標にする。

厚みを19mm±0.5に切削する

 

次回作業(後半)は木目を合わせて扉及び棚の上面、底面、側面の板材を作る。

 

***

番外

1000m近い六甲山の上では気温は数度低く快適、ただし作業した日は湿度が高くジメジメした感じだった。クリエイティブラボの回りを散策すると紫陽花に似た「ボタンクサギ」が咲いており、大型のアゲハチョウが蜜を求めてに飛んできた。

ボタンクサギとアゲハチョウ、カマキリも一緒


クリエイティブラボの向かいには「ホテル神戸六甲迎賓館」が今春にオープンした。国立公園六甲山敷地内に1世紀ぶりに新築されたホテルだそうだ。こじんまりとしたホテルでBBQやランチ・カフェのほか季節に応じてイベントが開催される。

ホテル六甲山迎賓館 右:ロビーからの眺め

いいね。やっぱり神戸が好き。

もっとKOBE ずっとKOBE

ではまた次回をお楽しみに♠️