前回の中の灘目の水車について書きます。記事にあるように「灘目」とは西宮から神戸にかけて(東は武庫川から西は旧生田川)の旧郷名で1764年ごろから使われていたようです。(灘五郷酒造組合HP)
令和3年に「神戸歴史遺産」制度の創設され、第三回(令和5年)、第四回(令和6年)に住吉川の水車小屋跡が認定されました。従前からの神戸市指定文化財(580件)に加え、地域の人々により守られてきた未指定文化財や歴史遺産を未来に継承することを狙いにしている。ふるさと納税等による寄付金と同額を神戸市が負担して神戸市市民文化振興基金として助成して、神戸歴史遺産の維持・継承を行うようです。
■住吉川の水車小屋跡
神戸歴史遺産の第四回登録の説明記述は以下のようになっています。
15.住吉川の水車小屋跡( 上 流 左岸八輌場・五輌場地点)
住吉川は六甲山系中では豊富な水量があり江戸時代から水車による絞油や精米などが盛んに行われてきました。酒造業の活況により数を増やし、大正時代には80輌もの水車がありました。その後は時代の変化により減少し、1979(昭和54)年を最後に住吉川の水車小屋は姿を消しました。現在は、水車小屋跡の石垣や水車が回っていた水路跡などが残っています。申請団体は当地の草刈りなどを行うとともに、見学会や勉強会を実施し、神戸の地場産業を支えた水車小屋の存在を広く知っていただく活動を行っています。
https://kobe-rekishiisan.city.kobe.lg.jp/about/
https://www.city.kobe.lg.jp/documents/47637/nintei_4.pdf
水車小屋跡は「水車を未来につなぐ会」によって維持活動が行われて、そこから発行されている「水車の森」パンフレットに沿って散策しました。

スタートは東谷橋で約1kmの森の中の散策です。


約250年前には産業に幹線道路であったことを思い浮かべて一歩一歩踏みしめて行きました。周辺には当時の石臼が転がっています。


「どんぐりの広場」から「銀杏の広場」にかけては通り過ぎてしまいそうな滝壺の跡が数カ所ありました。




この道を牛が4、5俵の米俵を積んだ牛車を引っ張り上げたと思うと当時の苦労がうかがえます。

銀杏のひろばには石臼が残っています。このエリアにはおおよそ1万個の石臼があったようで活気ある精米作業が行われたことが想像できます。臼には搗き臼(ツキウス)と挽臼(ヒキウス)があり、水車小屋では水車の動力で杵(キネ)を搗き臼に落として玄米を精米したようです。時代により麦を小麦粉にしたり、菜種を粉砕して油を搾り摂ったようです。精米では水車の動力を使うことで足踏み式に比べて生産性が大幅に向上してそれが酒作りを大きく変えることになり、灘の酒作りが大きく発展しました。


水車小屋が連なっておりその水は上流から下流へ利用されました。そのための水路が残っています。昔は満々と水が流れていたのだろうと想像します。さらに木橋を渡ると小さなお地蔵さんが鎮座しています。当時の人はどんな想いでお地蔵さんにお供えをしていたのでしょうか。


水車ひろばには立派な滝壺が残っています。幅は約80cmで深さは2m以上あります。6m近い水車が回っていたという記録が残っているようです。滝壺から暗渠を通じて下流に水が流れ、次の水車へつながっていきます。






「桜のひろば」には最も上流の水車小屋があったと思われます。上流の住吉川から水を引くために数百メートルの長い水路が造られて、ところどころに立派な石積みが残っています。導水路はかろうじて残っているものの災害の度にだんだん崩れていくのだろうと思うと寂しくなります。8棟の水車小屋に水を送り、6mもある水車を次々と動かす一大工業地帯であったと思います。そのための1kmに及ぶ水利計画はすごいものだと導水路跡を歩きながら思いました。



最後に木橋を渡りゴール。標高差85mの水車の森は250年前の工業団地に違いない。住吉川の豊富な水量と六甲山の標高差をうまく利用した一時代前の産業革命であったに違いありません。

いいね。やっぱり神戸が好き。
もっとKOBE ずっとKOBE
ではまた次回をお楽しみに♠️