平安時代、京の都に住む人たちが
どうやって神戸にある、有馬温泉や布引の滝を訪れたのか?とてもその経路が知りたくなって、調べることにしました。
平安時代には「有馬街道」「有馬道」という道が、神戸に整備されていました。別名「湯山(湯ノ山)街道!
出発点は、神崎(現・尼崎市)です。
そこから、伊丹(現・伊丹市)→ 小浜(現・宝塚市)→ 生瀬(現・西宮市)→ 有馬温泉という、ルートです。
京都から神崎までは船旅・クルージング♪
平安時代の船といえば、遣唐使が乗った遣唐船が思い浮かびますが
画像はhttps://taisi123jp.exblog.jp/10578409/ よりお借りしました。
漕ぎ手も入れて数百人?が乗る大きさ! 流石に、河でこのサイズは無理!
次に思いつくのが、貴族の舟遊びで使用する「竜頭鷁首」(りゅうとうげきしゅ)
この船だと、楽しみながら川下りが出来たでしょうね。
この二つの川が合流して淀川となります。
今の地図で見ると、こうなっています。(黄色が宇治川・紫が桂川・青が淀川)
そして、この淀川を下っていくと途中で、神崎川と分岐しています
(青が淀川・緑が神崎川)
それぞれの川は、大阪湾へと流れています。
淀川と分岐している所から平安人は神崎川へ入り、今の尼崎市神崎で船を降りました。
当時、この神崎の船着き場は川尻泊(かわじりどまり)と呼ばれ、その歴史は古く飛鳥時代から奈良時代に活躍した行基(668~749)によって、神崎川の河口に河尻泊(港)が作られ、その後785年に和気清麻呂が長岡京遷都に伴い、都と瀬戸内海を結ぶために、この神崎川と淀川を直結させる工事が行われました。
河尻泊は、大阪湾と京を結ぶ港としてとても繫栄したようです。
平安時代後期には、神崎川沿いには貴族や寺社の荘園が開発されたそうです。当時としてはとても便利なルートだったので、多くの人が西日本の各地へと出向くのに利用したようです。
さて、神崎で船を降りた平安びとは、籠や輿・馬に乗ったり、徒歩で有馬温泉を目指しました。
平安時代の上流貴族たちは輿や馬を使って旅をしますが、それ以下の身分の女性は壺装束で歩き旅をしたようです。男性貴族は、狩衣といって狩りをするときに着る動きやすい普段着で旅をしました。
平安時代の陸の旅は、道が整っていない所も多くかなり危険で命掛けのような箇所もある旅だったようです。
ましてや、山の中にある有馬温泉ならさぞかし大変だったのでは…と、慮られます。でも到着すれば極楽のような温泉に癒されるのですから、頑張れたのかも(笑)
また、布引の滝へは有馬温泉からは青点線の「魚屋道」(ととやみち)を利用して六甲山を越えて布引の滝(青丸地点)へ行ったのかもしれませんね
せっかくここまで足を延ばしたのだから、ついでに布引の滝を見て帰りたいと思った人も多かったのではないかしら?と、妄想を膨らませています。
また、布引の滝を目指した旅なら西国街道を使ったかもしれませんね。
平安時代に大宰府へ流された菅原道真の足跡をたどると、長岡京あたりから淀川を下り
大輪田の泊で船を降りて陸路を歩いたことが分かります。
地図で確認してみると、下の赤丸が大和田の泊(兵庫の津)です。ここで船を降り、ここは兵庫宿ともいわれ宿場だったので、ここで一晩泊ってから布引の滝を目指して青線を歩いたかどうか…
当時は、このルートはなかったかもですね。
そこは、妄想を膨らませて平安時代へタイムスリップして楽しみましょう。
それにしても、平安時代の人は健脚ですね。
今のように娯楽も少なかったので、五感を喜ばせる努力は惜しまなかったのでしょう。
「光る君へ」の大河の終わりに併せ、平安時代タイムスリップは一旦終わりたいと思います。
いいね。やっぱり神戸が好き
もっと KOBE ずっと KOBE
ではまた次回をお楽しみに♥
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