兵庫(実は神戸)を開港したときに定められた外国人居留地があまりに狭いということで、居留地西側境界の鯉川から宇治川までを雑居地として、外国人が住んでもよいということになった。この雑居地において、神戸特有の「異文化との交流」の風土が育まれたことは以前のブログでも紹介した。
まずは、外国人居留地と雑居地を地図で見てみよう。雑居地の西の境界は宇治川、北の境界は山麓付近までとなった。外国人が住んでもよいというエリアはずいぶん広がったことがわかる。

外国人は見晴らしの良い山麓付近を好んだようで、多くは、今の北野異人館街と言われるあたりに居を構えた。そこから現在のトアロードを下って居留地のオフィスに通勤する感じだったのか。居留地と雑居地とを地図上で領域を分けるのは簡単だが、居留地は治外法権だったし、運営は色々と大変だったろうと思う。
今回は、雑居地の西側境界となった宇治川を辿ってみようと思う。以前紹介した外国人居留地の西側境界の鯉川は、河川としては流量も少なく、街の中を開渠・暗渠を繰り返し、どこを流れているのかわかりにくかったが、宇治川は流量も十分で、どこを流れているのか迷うこともない。

上流は再度谷川だ。神戸山手グローバル中学校高等学校(神戸山手女子中学校高等学校が共学になって名前が変わった)のあたりから下っていくことにしよう。(地図上①)
けっこう急な坂を下って、バスが通る幹線道路の下をくぐる。(地図上②)


右:幹線道路より南側から
幹線道路から少し下って、地図上③のあたりは、河原を歩けたり、広場もある。雨で水量が増えていないときは散歩もいいだろう。




再度谷川が上流の宇治川は、途中で平野谷川が合流してくる。(地図上④)


合流すると流量もそれなりに増えてくる。晴れている日はそうでもないが雨の日は、そこそこの水嵩になる。(地図上⑤)


実は、この宇治川は地元では桜の名所でもある。桜の時期には、このあたりはけっこう賑わう。桜の時期(ちょっと出遅れているが)に撮った写真があったので載せておこう。(地図上⑥)




このあたりまでは、ずっと開渠だが、ここを少し下ったあたりから暗渠になる。ここから暗渠だというのは誰が見てもわかるぐらいはっきりしている。宇治川暗渠調整池と呼ばれる3段階ぐらいの大きな水溜めと、その上には水門のような構造物があり、そこから先は地下を流れる暗渠となっている。(地図上⑦)




宇治川は道路の下をくぐる地下道のさらに地下を流れている。そのまま宇治川商店街の地下を流れていき、ハーバーランドのあたりが河口になっている。(地図上⑧)


宇治川の暗渠は 50年以上前からあったようだが、先ほどの大きな暗渠調整池や水門のような構造物は、水害がきっかけだったようだ。昭和42年7月の西日本の集中豪雨。き今なら線状降水帯と言うんじゃないだろうか。小学生の頃だったが、凄い雨だったことを覚えている。この豪雨で山から大量の土砂と倒木が流れてきて、暗渠の入口をふさいでしまって、地下ではなく地上の商店街に濁流が流れ出した。

この水害をきっかけに昭和47年に先ほどの宇治川暗渠調整池が造られた。なるほど、あの大きな調整池を見ると大量の土砂が流れてきても、そう簡単に暗渠の入口を塞いでしまうことはないんじゃないかと見てとれる。実際、昭和42年の水害以降は、宇治川の氾濫はないと思う。

(メルカロード宇治川)
雑居地の西側境界の宇治川を辿ってみたが、雑居地との関係について全く書けていないので、そこはまた別の機会に調べてみることにする。
オマケというわけではないが、この宇治川が暗渠になる前、ずっと昔のことかもしれないが、頻繁に氾濫していたのではないかと思われる証が存在する。宇治川下流の流域に走水(はしうど)という名前が残っている。昔は走水村、今は通り名に走水通という名前があり、そこには走水神社がある。「走水」読んで字のごとくかと思っている。


昔から河川は輸送路の手段のひとつとして、地域の商業流通の発展に関わってきた。流域の村や町の発展の歴史でもあったはず。ところが神戸の河川には、そういう役目は期待できず、単なる地域の境界でしかなかった。そして、氾濫に対する対策を繰り返すことで土木技術が発展してきたように思う。それが神戸という街の発展の歴史の一つかもしれないと思った。
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ではまた次回をお楽しみに ♣︎