徳川幕府300年という、長く続いた太平の世の中で神戸に住んでいた人々は、どんな暮らしをしていたのかを調べてみました。
当時の神戸市は、摂津国莵原(うはら)群・有馬郡・八部(やたべ)郡・播磨国明石郡・美嚢(みのう)郡という5つの群にまたがっていました。
その中には、明石藩領・旗本領・尼崎藩領・三田藩領・田安家領・幕府領(天領)などが点在していました。
神戸の村で有名なのは、神戸村・二ツ茶屋村・走水村ですが、調べてみると村は点在どころか、無数の村が存在していたことが分かります。
下記の地図は、幕末期近世村領域データです https://geoshape.ex.nii.ac.jp/nrct/#method-honda
●がすべて、村がある場所です。




引用:神戸村「日本歴史地名大系」地名項目データセットよりhttps://geoshape.ex.nii.ac.jp/nrct/resource/29/290000034600.html
まだ、北区・西区の北の方にも村が点在していますが割愛しています。
そのような村の中で人々は、農業・石の切り出し・水車業・菜種油製造・素麺製造・酒造り・魚肥作りなどに従事していました。
どの辺りでそれらの産業が行われていたか思いを馳せてみます。
神戸の地域の区分図では大きく、5つの地域に分けられています。

引用:
農作物は①②で主に作られていたようです。
米・麦・大豆・蕎麦は、年貢用と自分たち用に作っており、西区あたりでは小松菜・キャベツ・ほうれん草・菊菜などの、葉物野菜がたくさん作られていました。
石の切出しは③あたりでしょうか・・・

神戸から切り出された石は「武庫御影石」といわれ、特別な石として扱われていました。
「日本山海名産図会」には、摂州武庫、莵原の二郡の山中より出せり 、また「摂州名所図会」には、武庫の山中より多く石を切出し・・・牛車の力をもって日々はこぶこと多し と書かれています。
この六甲山から切り出された花崗岩のことを御影石と呼んでいました。とても固いという特徴があり、石橋や伽藍の礎石・鳥居・燈籠・手水鉢などに使われました。
今でも、六甲山系から切り出される御影石は「本御影」といわれブランド石となっています。(引用:ひょうご歴史の道 〜江戸時代の旅と名所〜 より)

引用・出典:https://www.city.kobe.lg.jp/documents/15381/2cg_rekishi_kinsei.pdf P12‣13
ちょうど今でいう、東灘区にある荒神山から切り出していました。荒神山は住吉川の上流で山陽新幹線と交差する手前、ちょうど住吉霊園の南側にあります。
一頭の牛が、大きな石を海の近くまで運んでいたなんて、ショベルカー並みの力持ち!
当時の力仕事には、牛の存在が欠かせませんでした。
水車業は全域にあったようです
「水車業」?聞きなれない言葉ですよね。
調べてみると、江戸時代中頃に新しく田を開くことと水車を使って仕事をする事を目的に、水車新田村が作られました。その後、都賀川上流の傾斜面の川水を利用して、灯油用に菜種を絞る目的での水車業が盛んになったようです。
下記の地図、一番上に青の下線を付けた所が水車新田です。

今の灘区の北部あたりに位置しています。
ところが、農民は年貢を納める為に米作りに専念しなさい!という幕府の統制により原料の菜種が手に入りにくくなりました。また、日本各地に水車業が起こったこともあり灯油を止めて、灘の酒専用の米を作りその米を水車で米を搗き、酒造りのために水車業を続けたようです。
これも神戸の、山と海が近く川が多く・傾斜も多いという地形を利用した産業といえます。

引用:https://www.city.kobe.lg.jp/documents/8008/keikaku01.pdf P3より
本当に、川だらけ!(;''∀'')
特に有名だったのが「灘目の水車」
住吉川流域に、最盛期には88基ありました。当時の水車をしのび、住吉山手に大小2基の水車が「山田太郎車・次郎車」と名付けて再現されています。
手前の小さい水車が次郎車・奥の大きい水車が山田太郎車です。

灘目の水車:神戸市東灘区住吉山手4丁目1-26
凄い迫力ですね!

水車の中ではこんな風に作業が行われていたようです。

菜種や米はこんな風に水車の回る力を利用して、一度にたくさんの臼で搗いて量産していたのですね。
原動力は、自然の川の流れなので24時間休むこともなく搗き続けていたので、効率はとても良かったでしょう。
さて、今回は農業・石の切り出し・水車業・菜種油製造までをご紹介しました。
後編は、素麺製造・酒造り・魚肥作りを紹介します。
いいね。やっぱり神戸が好き。
もっと KOBE ずっと KOBE
ではまた次回をお楽しみに