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平生釟三郎の足跡を追って

 

神戸・住吉で世界を見据えてまちづくりを進めた偉人、平生釟三郎(ひらおはちさぶろう)について足跡を追ってみた。

平生釟三郎の銅像(甲南小学校校庭)

明治26年に27歳で神戸商業学校の8代目校長として就任し、県議会で廃校が議論される中でほとんど荒廃していた学校を立て直した。その2年後、恩師からの要請で渋沢栄一らが相談役をする東京海上保険(現在の東京海上日動)に入社、大阪支店の開設を企画して支店長になり、順調に顧客拡大していった。その頃、英国ロンドン支店では英国人の不正などで赤字転落、その処理のためロンドンへ出張し、自らリスク判断の考え方をまとめて改革を進めた。日露戦争の中、保険各社が戦争保険から撤退する中で、平生釟三郎は英国からの情報などを分析して、太平洋を航行する船舶に対して契約を受け入れることを打ち出し、その方針が成功し大きな利益を上げた。明治40年に41歳になり、大阪にあった社宅から住吉村に住宅を移した。

明治11年に神戸市生田区北長狭通に開校した兵庫県立神戸商業学校(左)と入社当時の東京海上保険の自社ビル(右)

明治38年ごろに阿部元太郎(後の日本住宅社長)と田邊貞吉(住友銀行初代支配人)が住吉村から観音林地区と反高林地区の荒地を借受け、上下水道を整備した新しい住宅地の開発を進めた。また、阪神電車が開通して住吉駅御影駅が作られて交通の便が良くなり、大阪や神戸への通勤が可能になった。六甲山から流れる水は清く、大阪の財界人が移り住み始めた。明治33年に朝日新聞創業者の村上龍平や住友本家が移住した。

村上龍平邸(今はその一角が香雪美術館)(左)と御影石の塀が残っている住友本家の跡地(現在はマンション)(右)

阿部元太郎の提案で社交場として観音林倶楽部を明治45年に設立。その後22年間、様々の社会貢献の話し合いの場となった。

 

当時の観音林倶楽部(左)は財団法人住吉学園(右)になり地域に貢献

住吉村の小学校の建物がひどかったため、平生釟三郎はロンドンで見たパブリックスクールを思い浮かべて、新しいまちにふさわしい理想の学校を創ることを考えた。

観音林倶楽部では日本生命長弘世助三郎、住友銀行支配人田邊貞吉、建築家野口孫一、才賀電気商会創始者才賀藤吉らと学校設立の相談を重ねた。

住吉村から村有林を一定期間無償で借受し、明治44年甲南幼稚園開園(園児44人)、翌年甲南尋常小学校開校(児童11名)を設立した。その後、学校運営の資金が底をついて創始者の半分近くが離れていったが、鉱山王久原財閥(後の日立グループ)の総師久原房之助が資金援助して立て直すことができた。

甲南小学校

住吉川にかかる「くはらばし」 この橋を渡った先に久原房之助の広大な住居があった。現在はかつて億ションと呼ばれた超高級なマンションが建てられている。

第一世界大戦終了後の不景気とスペイン風邪の大流行も重なり住民の生活が苦しくなる中、相場師で西日本の物産を扱う那須善治が社会貢献について平生釟三郎に相談。スラム街の貧民救済、労働者支援組合活動、神戸購買組合設立した賀川豊彦と共に灘購買組合立ち上げた(大正10年)。御影から六甲までの小売店を集めた灘商業振興会の反対運動を平生釟三郎が収めた。昭和23年灘生活協同組合と改名し、昭和37年神戸生活協同組合と灘生活協同組合が合併して灘神戸生活協同組合誕生(現在のコープこうべ)。

JR住吉駅前のコープこうべ本部

住吉村には病院がなく、大怪我をすると神戸や大阪の病院に行く必要があった。また、当時は健康保険がなく、医療費は医者の言いなりで貧しいと診察も受け付けない状況に、平生釟三郎は怒りを感じていた。その時に理想の病院を計画していた鋳谷正輔から資金相談を持ちかけられて、2人が発起人となり資金集めに奔走して、住吉村から土地の借受けが決まり、病院建設が動き出した。汚水に対する住民の大反対が起こったが、粘り強く話し合いを重ねて昭和9年、甲南病院開院、看護師養成所も開設した。

甲南病院は2019年に甲南医療センターと改称し、地域医療支援病院になる

第一次世界大戦終結後の海運不況が川崎造船所の経営を圧迫し、昭和2年にメインバンクの十五銀行が破綻、追い討ちをかけるように昭和恐慌が襲ってきた。川崎造船所の社長松方幸次郎は平生釟三郎を訪ねて、さらに神戸市長鹿島房治郎からも川崎造船所の労働者である何万人もの神戸市民の生活を守るために再建支援を懇願された。賀川豊彦から労働者救済のため、経営者と銀行や投資家との戦いには平生釟三郎が必要と説得され、再建に乗り出すことを決めた。銀行の持つ債権を整理して、調停案を成立させたのち、社長に就任して会社再建を成し遂げた。

 

その後、平生釟三郎は広田内閣の下で文部大臣に就任。軍部の圧力により内閣は総辞職した後は、陸軍省の事務嘱託を務め、昭和20年の終戦の3ヶ月後11月に80歳で永眠。

住吉村は昭和25年に神戸市に合併されたが、住吉村の資産である村有地は財団法人住吉学園が受け継ぎ、住吉住民の発展と福祉向上に活用されている。

平生釟三郎邸跡地は平生記念館として甲南大学OBの施設となり(左)、当時の門はそのまま残されありしひの雰囲気を伝えている(右)

旧住吉村のお墓に眠る平生釟三郎さんと奥さんの平生すずさん

社会ニーズを敏感に感じて、そこから芽生えた想いは揺らぐことなく貫き、周りの同志と対話を重ね、反対勢力に対しては粘り強く話し合いをして、大志を成し遂げていく平生釟三郎の生き方に感動します。今、平生さんがここに居れば、何を想うのかと想像すると胸がワクワクしてきます。

 

参考図書

・「潮風のむこうには 平生釟三郎と住吉村の人々」中森敏博

・月間神戸っ子 2018年5月号「神戸の社会に尽くしたサムライ紳士 平生釟三郎」

東京海上日動HPから「東京海上日動の歴史」

コープこうべHPから「愛と協同を未来へ コープこうべ100年史」

 

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ではまた次回をお楽しみに♠️