もっと KOBE ずっと KOBE

神戸の人、自然、景観、ファッション、食べ物、文化、便利さ、生活、全部好き!

小高い丘のレストランと「女のいる風景」

 神戸の兵庫区の会下山(えげやま)の住宅街に神戸空襲や阪神大震災を乗り越えて建つ昭和初期の邸宅がある。
現在は「la mura(ラ・ムーラ)神戸会下山」として、2023年から訪問者を美味しい食事とお酒と心地よいもてなしで迎えてくれる。

 最寄りの神戸市営地下鉄の「上沢」駅か神戸高速の「湊川」駅からしばらく歩き、山の方へ進むと細い道になり、お店の場所がわからなくなりそうだが、大きな石垣を見つけてほしい。通り過ぎてしまいそうな控えめな看板が見えてくる。

 

昭和初期の建物は、木部が黒く変化したせいか家の輪郭がはっきり出て、室内は昼間でも少し暗めの独特の落ち着きを放っている。ある程度年齢を重ねた人たちには郷愁であり、若い人たちには時間の経った建具や室内の意匠に温かさや安心感を見出したり、日常で接することのない新鮮さを感じることもあるようだ。

この奥は昔も厨房があった、当時は右の水屋の小さな引き戸から食事が出てきたのかも

廊下を進むと左右に食事をするスペースがある

廊下の右はお茶室だったようで、床の間や天井の網代が特徴

発酵食材を使った素敵なお料理の数々、胃も目もうれしくしてくれる

食後は邸内を見せてもらった。

この窓からは「兵庫の津」の船の出入りが見えたのではないだろうか

 昭和の住宅によく合う女性の絵 小磯良平画伯の筆だと美術に明るくない私でもわかった。もしやこの邸宅と何か関係があるのではと思い聞いてみた。

 

 『ここは、昭和14年に石阪芳松商店の長男 石阪慶一郎氏によって建てられた邸宅です。石阪芳松商店は当時、問屋業を営んでいました。
慶一郎さんには孝二郎さんと詩人の竹中 郁さんという弟さんがいらっしゃいます。』

ええっ! 竹中 郁ってあの? 小磯画伯の絵のモデルの?それに学校の校歌や学園歌の作詞をいくつもいくつも手掛けたスゴイお方。そのお兄さんのお家なのか!と驚いていると、
『慶一郎さんのすぐ下の弟の孝二郎氏の息子さんは、洋画家の石阪春生氏なんですよ』と教えてくれた。エエ~~っ!イ・シ・ザ・カ・ハ・ル・オ!
小磯画伯に石阪春生氏が師事したのは、叔父さんの竹中 郁氏との縁だったですね。

神戸にいると石阪先生の絵が自然と目に入って来ます。
だいぶん前のことですが、さんちかに先生の大きな絵があったような。
そういえばこのメダル、うちにもあった。

ポートピア81(神戸ポートアイランド博覧会) 記念メダル

1975(昭和50)年10月6日~1976年4月3日には、NHK朝の連続テレビ小説「おはようさん」のタイトルバックに石阪先生の絵が流れていました。
NHKのサイトからみることができます。

「ことばたちのフーガ メルヘンの部屋10」世界文化社 1979年刊行



タウン情報誌「月刊 KOBECCO(こうべっこ)」

抽象画やユニークなコラージュも製作されますが、「女のいる風景」は石阪先生の代名詞と言えます。

ご自身の絵の女性について

「ストイックな女性がいい、健康に跳ねて、ニコニコ笑っているよりは。もの思う、疲れている、しらけているといったマイナスエネルギーが働いているとき、その女性はあやしさがありますね。それでいて毅然としたもの、女の性をぎりぎりで生きているという感じでもある。(「性の極限に生きる」読売新聞1976年4月18日)

 


小磯記念美術館の「石阪春生展」の図録で見つけた一節

1981年の石阪春生個展に寄せた小磯良平の言葉の抜粋を引用させていただく。「彼の現在の絵の作風が如何にも神戸らしい空気を一ぱいににほわせているように私には思われるのである。というのも他の誰にも似ていない独特な技法やスタイルのせいではないか。」時代や芸術界の状況は変化しているとはいえ、彼が石阪氏の芸術において、彼自身の秘められた市民的な独立独歩の精神の継承を認承していたこと、それをまた神戸という街の精神的風土に結び付けて考えて居られたことは、芸術に関わる神戸人としては、しっかりと記憶に留めておくべきことであろう。
「石阪春生氏の絵画の世界」小磯記念美術館 前館長 西村規矩夫 より

 石阪先生は、シュツとした見るからに「KGボーイ」という風貌で多くの人を魅了してきたんだろうな。2019年のクリスマスイブに逝去されましたが、先生の絵はいつまでも人々の心の中に生き続けます。

いいね やっぱり神戸が好き

もっとKOBE ずっとKOBE

ではまた次回をお楽しみに♦

「la mura(ラ・ムーラ)神戸会下山」
https://la-mura.com/news
住所:神戸市兵庫区会下山町1-2-15
TEL:078-381-8596
営業時間:11:30-14:00 / 18:00-21:00 ※ 完全予約制(前日まで)
定休日:火・水曜日定休日

 

六甲山材へのこだわり、棚の製作【準備編】

六甲山材を使って棚を製作する計画があるので、六甲山材の情報を集めるために「こうべの木マルシェ」へ行ってきた。「こうべの木マルシェ」は昨年に続き2回目の開催で今年は7月25日・26日に神戸市森林公園内で開かれた。酷暑の最中だったが、海抜440メートルで多くの樹木に囲まれているので木陰では快適に過ごせた。

神戸市立森林植物園メタセコイヤ並木で開催されたこうべの木マルシェの全景

六甲山材については以前にブログに書いた。

poko2023.hatenablog.com

 

「こうべの木マルシェ」は「こうべ森と木のプラットフォーム」が主催するイベントで神戸市も後援しています。地域の財産である森林を育み、活用し、次世代へ繋いでいく場となっている。

今年の出展者は、大槻家具工房/木原木材店/コウエイ/神戸芸術工科大学/三栄/THE BACKYARD/四国の右下木の会社/ツリーワークス/マタタビ書店・工藝係/宮下木材/六甲山クリエイティブラボ/公園緑化協会/神戸市森林課だ。

出店内容は①木の活用を体験、②こうべの木との出会い、③家具や小物など木の製品の展示、に大別できる。

公式の報告書も公開されているので各出展者が何を得意にしているのかなどがよくわかる。

note.com

note.com

印象に残った出展者について書く。

■六甲山クリエイティブラボ:椅子やサイドデスクから木工によるキーホルダ、名刺ケース、ネームホルダーなど神戸産材のロゴを付けて販売されていた。クリエーティブラボの責任者の野口さんは「こうべの木マルシェ」の企画の中心人物。本当にお疲れ様でした。

六甲山クリエイティブラボのテントでは六甲山材を活用した名刺入れや名札など小物の販売や木工のワークショップが行われていた

■コウエイ:古材のチップにするのが本業のようだが、古材から子供のパズルやおもちゃなどを製作して保育園などに貸し出して子供が何を喜ぶかをリサーチしているようだ。

コウエイさんの展示品には子供たちが興味を示していた。

■三栄:六甲山材を扱う数少ない製材所。お店の看板に使える六甲山材を中心に展示・販売していた。

三栄さんのブースでは看板に使えるような木が所狭しと並んでいる

 

ツリークライミング体験会

公園内の木にロープをかけてそれを操って10メートルぐらいまで上がっていくイベントだ。ツリーワークスさんの指導の元で安全に実施されていた。登る前と登った後には木に両手を当てて、「お願いします」「ありがとうございました」と語り、自然と共存する礼儀をきちんと指導していた。気持ちがいい。

大人も子供と一緒に童心に戻りロープを操って登っていく

 

**

三栄さんとクリエイティブラボさんの協力を得て、念願の六甲山材での棚の製作をいよいよ始めることにした。

三栄さんから調達する乾燥を終えた楠とヒマラヤ杉の木材をクリエイティブラボさんへ持ち込み、帯鋸、プラナー、丸鋸を用いて寸法通りの板材に加工して、それをハギ加工(付き合わせて接着)によって幅の広い板にして、棚と扉を作る。

クリエイティブラボは今年4月にオープンしたシェア工房で表六甲ドライブウエイを上り切った丁字ヶ辻から東へ200mぐらいに位置する。クリエイティブラボ責任者の野口さんが機械の安全な使用方法の指導や作り方について相談に乗ってくれた。いよいよ次は製作に入るので順次詳細を報告したい。お楽しみに。

これから利用する木工機械群

これからお世話になる野口クリエイティブラボ責任者

いいね。やっぱり神戸が好き。

もっとKOBE ずっとKOBE

ではまた次回をお楽しみに♠️

 

江戸時代の神戸・東灘区と灘区の村民の暮らしと神社

神戸市内に江戸時代点在していた村の姿を、深堀りしてみたいと思います。

その前に江戸時代の神戸にあった村の様子を、序章として紹介しておきます。

 

村の人口は、江戸幕府が編纂した正保郷帳(1645年)・元禄郷帳(1702年)・天保郷帳(1834年)の記録から知る事が出来ます。

日本の近世(⑧村の生活文化)塚本学編P17より

今の神戸市は、摂津国播磨国に属していました。

摂津国には、東灘区・灘区・中央区・長田区の一部

播磨国には、須磨区垂水区・西区・北区の一部が入っていました。

摂津国の村数が、元禄の870から比べると天保の1223に急激に増えているのが、興味深いところです。

 

近畿地方の村の住宅の特徴は

・敷地内に色々な建物がギュッと詰まっていて、空き地が少ない。

・塀や垣根は少なく、道路に家屋が接していることも少なくない。

・建物と道路を遮るものが無く、家の中は丸見え状態。

・道路は家と家の間を縫うように走っている。

・敷地内には、母屋と離れの二つの住宅用建物があり

・どちらも床が張っており畳も敷かれている。

・炊事場もそれぞれに在り、跡取り夫婦と両親とは別居の形をとっていた。

・「隠居制」があった。

・夫婦単位の生活の場を作ろうとしていた。

 

このように敷地内に様々な建物があったので、庭は狭いか無く、各農家は開放的で他人との間に垣根を作らずに暮らしていたようです。

 

兵庫県たつの市にある豪農・堀家住宅を見ればイメージしやすいと思います。

敷地内にギュッと詰め込まれた黒屋根の建物が、見て取れます。

もしかすると、細い線で囲ったところも敷地内かもしれません。

 

 

そして、村には必ず氏神や鎮守という神社があります。

その境内は、村人が寄り合いを開いたり、色々な行事を行う場所にしていました。

そうした場所の前には高札場あり、常時掲示すべきことを命じた高札 と 臨時に出される高札の二種類が設置されていました。

その場所には、地蔵堂や常夜灯が設けられることが多かったようです。

 

また、神社やお寺にある鐘楼を村内の伝達手段として、火災や洪水を知らせることに使っていました。他には、太鼓や鐘などを設置した櫓を建てるところもあったようです。家々が密集していた近畿地方の村ならではの、生活の知恵だったようです。

 

こうした知識を仕入れて、江戸時代の神戸の村を深堀していきたいと思います。

江戸時代の神戸市には天保の頃には、1223もの村があったとされています。

今の区割り地図で見比べてみても、その数の多さにはビックリ!

 

今回は

東灘区と灘区

 

今は二つの区に分けられていますが、歴史的にはこの二つの区すべてが灘と呼ばれていました。そして、その中心が今の東灘区にあたる部分だったそうです。

今の東灘区と灘区にあった神戸の村を語る時、1989年(明治22年)に取り決められた「東灘旧五ヶ町村」が外せません。

その時誕生した本山・本庄・魚崎・住吉・御影の5つの村は、江戸時代からあった小さな村々を統合したものでした。

 

で囲ったところが、新しく誕生した本山・本庄・魚崎・住吉・御影の東灘旧五ヶ町村です。

本山にはで囲った江戸時代からの8つの村が含まれています。

本庄にはで囲った江戸時代からの3つの村が含まれています。

魚崎にはで囲った江戸時代からの2つの村が含まれています。

住吉村だけは、元々大きな村域だったのでそのままを村にしました。

御影にはで囲った江戸時代からの5つの村が含まれています。

 

こうしてみると、江戸時代の東灘・灘区には19もの村があったことが分かります。

 

摂津国名所旧跡細見大絵図 天保7年(1836年)に書かれた地図から

新改正摂津国名所旧跡細見大絵図|神戸市立中央図書館 貴重資料デジタルアーカイブズ

東灘区と灘区を抜粋した地図を参考に、当時の村と今を比較してみたと思います。

 

東灘区にあたる地図(芦屋市と西宮市が少しかぶっています)



灘区にあたる地図

 

今回は、村の生活と密接な関りがあった神社や寺を調べてみました。

で囲ったのが天保7年当時あった神社やお寺

驚くことに、そのほとんどが現在も建っているのです!

ただ、で囲んだところは見つけられませんでした。

 

 

莵原住吉神社  東灘区住吉宮町7丁目1ー2

今も当時から受け継がれている、だんじり祭りが賑やかに行われています。

過去ブログ:まちの文化を継承する住吉だんじり祭り - もっと KOBE ずっと KOBE

 

若宮八幡宮   東灘区住吉山手5丁目3ー1

ここは無人の神社ですが、山田地区の人々が手厚くここを守っていることが伝わってくる場所でした。

 

森稲荷神社   東灘区森北町4丁目17ー11

715年に祀られた、気の遠くなるような昔からここにあって村人の信仰を集めていた神社です。敷地の広いとても清々しい空気に包まれた神社でした。宮司さんはとても親切に対応して下さいました。

 

東明八幡神社  東灘区御影塚町2丁目9-2

無人ですが、静かな神社でした。

 

六甲八幡神社   灘区八幡町3丁目6ー5

この神社も、とても規模が大きくて風格が感じられる神社でした。女性の宮司さんでとても話しやすく、色々と神社の昔にまつわる話を聞かせてくださったのですが、神社の祭りなどの記録は、昭和の初期以降しか残されておらず私が知りたかった、江戸時代の村の記録はありませんでした。やはり、戦争がネックになっているようでした。

 

五毛天神・河内國魂神社    灘区国玉通3ー6ー5

ここも無人の神社でしたが、手入れが行き届いており落ち着いた佇まいに、清められている気がしました。祭りの時には、だんじりが繰り出すようでだんじり小屋が近くに在りました。

 

王子神社     灘区原田通3丁目8ー43

今でこそ、こじんまりとした神社になっていますが、創建は鎌倉時代初めの1204年。

村人たちが、先祖を祀るために諏訪大社の祭神「健御名方命タケミナカタノミコト)を祀り、山や水・風の神として信仰されていた。当初の境内の敷地は13000坪を有していたそうだ。

 

保久良神社   東灘区本山町北畑680

保久良神社とおしゃれなまち岡本 - もっと KOBE ずっと KOBE

 

過去ログで触れていますので、割愛しました。

 

敏馬(みぬめ)神社 灘区岩屋中町4丁目1ー8

 

以上、9つの神社と行けなかったお寺の、「竜泉寺」「十禅寺」を加えて

計11社が今なお残っているのが、ミラクルです!

 

特に、最後に挙げた敏馬神社は境内に

江戸時代の古絵図

 

江戸時代後期の敏馬浦絵図

説明にある「神戸覧古」は、下記で見られます。

神戸覧古|神戸市立中央図書館 貴重資料デジタルアーカイブズ

 

 

室町時代の敏馬浦絵図

 

敏馬浦の賑わい絵図

 

が、掲示されていて

当時の村人との関わりや暮らしぶりが、手に取るように分かってとても興味深く見る事が出来ました。

本殿が高い場所に在り、海風を強くて当時の村人たちも、このように風を感じながらお参りをしていたのかなと妄想してしまいました。

 

今回の記事を書くにあたり、取材に応じてくださった宮司さんにはとてもお世話になりました。

頂いた由緒書きを見返して遠い昔、神戸の地で一生懸命暮らしていた村人の姿に思いを馳せてます。そういう時代があって、今日の発展した神戸がある。ということを忘れないようにしたいです。

 

 

いいね。やっぱり神戸が好き。

もっと KOBE ずっと KOBE

ではまた次回をお楽しみに

 

都市行政のお手本だった「居留地会議」

外国人居留地の境界だった河川について数回記事にしてきたが、外国人居留地そのものについては、あまり触れてなかったので、今回は外国人居留地そのものを都市行政の視点から書いてみようと思う。

神戸の外国人居留地は 1872年にイギリス人土木技師の J.W.ハート氏が「神戸外国人居留地計画図」を作ったところからはじまる。それに基づいて外国人居留地が造られた。外国人居留地の場所と領域について、現在の地図と居留地の地番図を並べてみた。

 

 

通り(南北の筋)の名前や番地を見てみよう。居留地を区切っている南北の筋を西から順番に、明石町筋、播磨町筋、浪花町筋、京町筋、江戸町筋、伊藤町筋。中心の一番大きい筋が京町筋。ほとんどの筋が地名から取られている。一番東の伊藤町筋だけが兵庫県知事 伊藤博文の名前から取っている。番地は何とか順番にたどれるが、並び方が不規則だ。造成が終わった順に番地を割り振ったようである。実際はどんな街並みだったのかは、神戸市立博物館の常設展示場にミニチュアがあるので、それを見れば街並みの雰囲気はわかる。

 

どちらも博物館内で撮影

博物館は地番図 13, 24 のあたり

 

大丸の西玄関を出たところに居留地の碑がある。ちょうど居留地の北西の角に当たる。

 

地番図 42 のあたり

 

居留地には「○番館」といった居留地の地番をそのまま使った洋風の建築物が多く残っている。ほとんどが、大正から昭和初期の建築物であろう。今回は明治の居留地時代のものを中心に紹介していこうと思う。

 

■ 門柱(地番図 68, 69)

京町筋に残っている68番館の門柱。「68」と書かれており、門柱前には碑文がある。69番地にも番地が書かれていないが、外国商館の門柱が残っている。これらは昔のまま残っているので貴重である。

 

左が68番館 右が外国商館(69番)

 

■ 瓦斯(ガス)灯(地番図 25)

日本で最初に設置された瓦斯(ガス)灯を記念して 25番地に残されている。このガスの供給の設備や仕組みを学んだ半面、こういう将来のインフラに関わる事業を外国に委ねていると後で困ると判断し、ガスの供給を居留地内にとどめたとか。明治政府は外国を受け入れ、学びつつも、しっかり自国の利益のことも考えていたことがわかる。

 

青白く灯ったのだろうか

 

■ 15番館(地番図 15) 重要文化財(1989年)

居留地時代の建築物として唯一当時の形を残しているのがこの 15番館。1881年(明治14年)頃に建てられ、アメリカの領事館として使われていた。この15番館、実は復元されたものだ。1995年の阪神淡路大震災で全壊してしまったのだ。3年後に忠実に復元され、今は Salon15 TOOTH TOOTH というレストランとカフェが入っている。

 

南側にバルコニーがあるコロニアルスタイル

 

■ 下水道施設(地番図 15)

日本最古の近代下水道施設。居留地を計画した土木技士の J.W.ハート氏の設計。15番館のすぐ脇に展示のような形で置かれている。歩道の上に展示されているのが口径60cm×46cmの卵形管。埋設されているのは口径90cmの円形管。どちらも煉瓦造り。現在も雨水排水に使われている。卵型だと、流量が少なかったり勾配が緩かったりしても流速を確保しやすい。そのためゴミも溜まりにくい。きっとそういう技術もこのときに学んだに違いない。

 

15番館に行くことがあったらのぞいてみて

 

居留地会議とその運営

前述のようなガスの供給、近代下水道の敷設などを含め、居留地内の運営全般に対して決定権を持ったのが居留地会議と呼ばれる組織だった。

 

参考文献:「神戸と居留地」多文化共生都市の原像
神戸外国人居留地研究会・編
神戸新聞総合出版センター

 

議長はだいたいイギリス領事だったようで、会議はもちろん英語。各委員会で検討された案件を居留地会議で最終決定するという形をとっていた。墓地委員会というのが珍しい。議事録は新聞に公開されるなど、情報の公開、厳格な会計など地方自治行政の良いお手本だった。きっと黒く塗りつぶされた資料とかは許してもらえなかっただろう。

 

実行部隊は、行事局長以下ということになる。今年の2月に居留地研究会の発表を聞きに行ったときに行事局長ヘルマントロチック氏の話があった。行事局長を27年も務めたと。また警察署長も兼務だったということで、さぞ忙しかっただろう。1899年に居留地は返還されたわけだが、その後も兵庫県警察の顧問として務めたということから実績も高く評価されていたことがわかる。

 

警察と並んで消防はというと、これは居留地会議では直接執行せずに、ボランティア組織としての消防隊が任務に当たった。この消防隊の隊長を務めたのが A.C.シム。西洋近代スポーツを KR&AC (Kobe Regatta & Athletic Club) を通じて日本に広めた人物だ。

 

右:東遊園地にあるシムの碑

 

(A.C.シムと居留地とスポーツの歴史については、こちらのブログ記事を)

poko2023.hatenablog.com

 

開国したばかりの日本にやって来て、警察署長や消防隊長とか色々大変だったろうな。しかし、こういう人たちのおかげで、居留地自治運営が円滑に行われたことは確かだ。そして、居留地会議の組織運営そのものが、都市行政の良いお手本になったと言えるだろう。

 

いいね やっぱり神戸が好き

もっと KOBE ずっと KOBE

ではまた次回をお楽しみに ♣︎

 

ブラジルへの希望と不安を胸に---神戸移住センター

 JR元町駅から鯉川筋に沿って山の方(北)に向かってずっと歩いていくと大きな東西の道路に出てきます。信号をコープに向かって渡りさらに北へ向かって坂道を歩いていくと今日のお話の舞台となる「神戸移住センター」の石垣が見えてきます。

鯉川筋に咲いている白いサルスベリ

移民センター入口付近

 「神戸移住センター」は昭和3年(1928)に「国立移民収容所」として設立されました。そんな昔から神戸で移民を受け入れていたのか?と思われたでしょ。
海外からの移民を受け入れた施設ではなく、海外への移民を送り出すための施設なのです。
施設の名称は「国立移民収容所」→「神戸移住教養所」→「神戸移住斡旋所」→「神戸移住センター」と変わり、移住を目的とした施設の役目は昭和46年(1971)に終了しました。
現在は平成21年(2009)に移住の歴史を残すこととブラジルを中心とする在住外国人の支援や芸術交流の場として整備され、「神戸市立海外移住と文化の交流センター」という名称で利用されています。
※この建物を異なる用途で使われた時期もありました。

現在は、1・2階が「移住ミュージアム」になっていて当時の多くの写真や貴重な資料が多く展示、移住者のインタビュー動画を観ることができます。それらの中には移住者の不安な気持ちや厳しい状況を伝えるものもあり胸に迫るものがありました。

そもそもなぜ移住か


 明治41(1908)年にブラジル政府が日本人移民を受け入れ、日本政府が移民を派遣することを取り決め、「日伯(にちはく)移民協定」が締結されました。これは日本からブラジルへの移民を促進するために定められた協定です。

 背景には当時の日本は人口が急速に増加し就労機会が限られていたため、多くの人々が貧困に苦しんでいたことがあります。
日本政府は海外に日本人を流出させることで、国内の社会不安を軽減しようと考えての策でした。(現代では考えられない政策です。)
またブラジル政府は、奴隷制度の廃止や労働力不足の問題に直面していたため、移民を積極的に受け入れる政策をとり、ヨーロッパや中東などからの移民を受け入れていました。



施設の役割


 この施設では全国から集まってきた移住者が1週間から10日ほど滞在して、移住の準備をしました。
50日以上に及ぶ船旅をするので健康診断は必須。移住するための心得の講義やポルトガル語の授業もあったようです。
国策事業なので移住者へ政府からの支援金の手続きや出国するための手続きも行われました。
生活のための用品や開拓に必要な器具などの買い出し、子供たちは洋服や時計、カメラを買ってもらっていました。

移住の心得やポルトガル語の講義の様子

ラジオやアイロン、ランプの生活用品

移住者が滞在した部屋を復元しています

病院のようなベットの配置は、船での生活に慣れるためだったようです。


海を渡って行った人々

これから出港へ向けてセンターを後にする移住者たち

ブラジルへの船が出港した神戸港の第3突堤、第4突堤

移住者を運んだラプラタ丸と50余日の船旅のお供となったラプラタ新聞

地図で見ても遠いブラジルへ船で渡ったと思うと、、、

壁一面では足らない数の移住家族やグループの写真の数々

メリケンパークにある碑「希望の船出」

はるかかなたの異国の地に思いを馳せて船出したことを思うと、先人たちの勇気と決断に頭の下がる思いです。


書籍にもなっている移民の歴史

 移民の歴史を語り継ぐ、記録や小説が何冊も出版されています。
今回 紹介できなかったブラジルでの厳しい自然との闘いが中心に書かれています。
移住者の方々に叱られるかもしれませんが、この暑い時期に、鯉川筋を上って来られることはおすすめ出来ません。まずは本でブラジル移民のことを知るのがよいかもしれません。
・「蒼氓(そうぼう)」 著者 石川達三 第1回芥川賞を受賞した、石川達三がブラジル移民として渡伯した時のことを描いたもの
・「うつろ舟」 著者 松井太郎 若き日にブラジルに渡り、そこで生き抜き、言語的孤立のなかで日本語で書き続けてきた孤高の作家の作品
・「ハルとナツ」著者 橋田寿賀子 日本とブラジルに引き裂かれて生きたふたりの姉妹の70年。 放送開始80周年を記念して放送したNHK大型ドラマ



 先日、友人が出演している神戸の老舗の100番ホールであった「第6回ブラジル音楽祭」へ行ってきました。
メンバーは日本人ばかりですが、出演の4つのバンドは明るく元気に暑さを吹き飛ばさんばかりのパワーで演奏・パフォーマンスをみせてくれました。
陽気で力強いブラジル音楽に移住者たちも力づけられていたことでしょう。

「海外移住と文化の交流センター」
移住ミュージアム
〒650-0003 神戸市中央区山本通3丁目19番8号 TEL 078-272-2362
行き方:JR元町駅から徒歩20分
    または 神戸市バス 7系統「元町駅前」~「山本通4丁目」下車
・開館時間 10:00~17:00(入館は16:30まで)
・入館料 無料
・休館日 毎週月曜日 (祝日の場合は、翌日に休館)
      年末年始 (12月29日~1月3日)

 

いいね やっぱり神戸が好き

もっとKOBE ずっとKOBE

ではまた次回をお楽しみに♦

 

新しく動き出した六甲山

最近、六甲山のカフェやホテルなどの施設が新しくなっている。気になって散策しながら調べてみた。背景には、神戸市が2019年3月に「六甲山グランドデザイン」を策定して、六甲山の活性化を進めてきているのが分かった。その中には規制緩和も含まれている。神戸市がんばれ!

www.city.kobe.lg.jp

参考:「六甲山のおすすめ Regulation Guide」

https://www.city.kobe.lg.jp/documents/9699/rokkosannosusume.pdf

 

■六甲山開発の歴史

1895年(明治28年)3月、A.H.グルーム(グラバー商会の出張員)が長男名義で六甲山上の都賀野村外3ヶ村の所有地を納涼遊園場敷地として賃貸する契約を結んだ。6月に三国池池畔に山荘を建てる。1910年(明治43年)の朝日新聞によると日本人12戸、イギリス人28戸、フランス人2戸、ドイツ人9戸、アメリカ人4戸、ベルギー人1戸の計56軒の山荘があったようだ。

グルームは私費を投じて植林や登山道を整備した。グルームは六甲山村長と言われて1912年(明治45年)に「六甲開祖乃碑」が建造されたが、第2次世界大戦中に破壊され、1955(昭和30年)に再建されている。「六甲山の碑」としてグルームの胸像と三国池池畔の山荘の跡に残っている「101標石」の複製が一緒に六甲山ビジターセンターの記念碑台に設置されている。毎年夏山の安全を願う「グルーム祭」が行われる。

グルーム氏の胸像。氏の居留地での商館が101番地にあったことからこの標石が別荘の敷地内に残っている 

1901年(明治34年)には4ホールのゴルフ場開拓、1903年明治36年)に9ホールに拡張整備、日本最初の公式ゴルフ場に認定された。

六甲山への交通手段は駕籠か馬で、駕籠は五毛と住吉駅から、阪神電車が開通してから新在家駅大石駅から駕籠と馬、1920年大正9年)に阪急電車が開通してからは六甲駅で週末になると幾十の駕籠が客待ちをしていたようだ。駕籠と馬の利用は昭和初期まで続いた。

1928年(昭和3年裏六甲ドライブウェイ、翌年には表六甲ドライブウェイが開通してバス運行が始まった。道路網の整備と共に諏訪山公園、鵯越遊園地、再度公園と公園計画が進められて、かつて生活資材を調達する場であった六甲山は観光レクリエーションの対象に変わっていった。

 

気になるいくつかの施設を訪ねてみた。

■ 653カフェ

コンサルティング企業アマデラスグループの社会貢献として「六甲山をもっと素敵に」をモットーに、個人の豪壮な別荘だった場所を解放。一角にカフェを設けて、テラス席、芝生広場、ヒマラヤスギにかかったブランコ、天空台「Stairway to Heaven」など、子供連れの家族や愛犬を連れてのんびりと過ごせる場所だ。

カフェの前には広い芝生が広がり心地よい風の中で開放感が満点

■ 百合珈琲六甲山

2025年4月にオープン。1935年に別荘「紫映荘」として建築された建物をリフォームしたカフェ。「太陽鉱工六甲山荘」として愛されてきた建造物を、古き良き時代の風情を残しつつ、新しい場として再生させた。解体も検討していたなか、神戸市の六甲山活性化推進施策を知り、可能な限り昭和の建築様式や家具、灯具を残しつつ、店舗として活用できるように再生したそうだ。ランチが充実して凄い人気。11時30分に訪ねたが既に満席で、皆さんゆっくりと会話を楽しみながら食事をしているので諦めた。

百合珈琲正面(KOBE jounal より引用)

昭和の雰囲気が残るカフェの内部(KOBE jounalより引用)

 

■ 六甲山サイレントリゾート(旧六甲山ホテル) 

1929年宝塚ホテルの分館として六甲山ホテルが誕生。2009年国近代化産業遺産に認定。2017年12月に営業終了。2019年7月六甲山サレンスリゾートとして生まれ変わった。八光カーグループ代表取締役池田淳八氏は「阪神モダニズム」の文化や歴史が失われつつある光景は実に耐え難いと感じていた。閉ざされて久しい建物の前を通るたびに朽ちていく歴史的な建物を目にして日々悲しい思いであったそうだ。「解体して新設する方が経済的」という意見が大半の中で、イタリア出身のミケーレ・デ・ルッキ氏が「素晴らしい文化遺産なのでぜひ修復して次の世代に遺しましょう」と言われ、阪急阪神ホテルズから譲り受けて修復を開始した。デ・ルッキ氏はポストモダンの代表的作家で「木を使わせたら世界一」「環境を保護して共存する建築家」と言われている。

1階のギャラリーやショップにはオリジナル商品が並べられ、暖炉の前にはソファーが置かれて誰でもくつろぐことができる。2Fはカフェで軽食を楽しむことができる。窓からの自然の風が気持ち良く、手の込んだ美味しいランチを頂き、至福の時を過ごすことが出来た。

新しく改修されて美しい姿が再現された旧六甲山ホテル

玄関を入ると阪神モダニズムが感じられる空間が広がっている
ショップには六甲山材を使ったオリジナル商品が沢山ある
旧六甲山ホテルのパンフレットと修復を請け負ったデ・ルッキ氏

ステンドグラスから光が溢れ、窓からの天然の風が気持ちいいカフェ

 

■ 六甲山クリエイティブラボ

神戸芸術工科大学の曽和教授の下で六甲山の木材利用研究を進めている野口さんが責任者を務める木工工房。2025年5月にオープンし数台の木工加工機械を設置して一般の人も利用できる。別棟の1Fにはギャラリーがり、卒業生の作品が並べられている。 野口さんより

「六甲山には杉や桧の他にも多様な広葉樹があり、椿や百日紅など珍しい木材が出れば集めている。今、六甲山材のカタログを製作中で近々完成する」

と語ってくれた。これからの活躍を期待する。

木々に囲まれたクリエイティブラボ
プレーナーやプレスなど本格的な木工機械が揃っている
別棟のギャラリには六甲山材を使った作品や卒業研究が展示されている
六甲山材のカタログと色々な種類の木材

■ ヴォーリズ六甲山荘

1934年(昭和9年)に関西学院教授小寺敬一氏の夏の別荘としてヴォーリズの設計で建てられた。今は国登録有形文化財に指定されている。ヴォーリズ関西学院神戸女学院、旧神戸ユニオン教会、旧居留地38番館など関西に多数の歴史的建造物を残している。残念ながら建物見学はお休みで叶わなかった。

都会から数10分と思えない静かな別荘エリア
杉林の中を10分ほど歩くとヴォーリズ六甲山荘に到着。敷地が広大で建物は見えない。
周辺には紫陽花や蓮が静かに咲いていた。暑さを忘れて気持ちの良い散策になった。

ヴォーリズ六甲山荘の詳細は下記のnoteの記事が参考になる。  

note.com

 

気になるスポットはまだまだある。六甲神戸迎賓館サードプレイスカフェ 、ROKKO NOMAD、六甲山Renest、ネイチャーライブ六甲。。。新しい体験を本ブログで書いていこうと思う。

 

六甲山開発は外国人居留者の山荘から始まり、徐々に観光レクリエーションの場になっていった。その後、戦争での施設の休止や自然災害での道路網の寸断などがあったが、それを乗り越えて復興していった。時代の進展により開発から自然保護の機運高まり、またレジャーの多様化や企業の保養所の閉鎖、建物の老朽化も伴いホテルの閉鎖が続いた。そして今、身近な自然の中でのライフスタイルが見直される中で、行政もそれに呼応して公園内の規制緩和が行われて、再び六甲山活用が前進を始めたように感じる。

 

いいね。やっぱり神戸が好き。

もっとKOBE ずっとKOBE

ではまた次回をお楽しみに♠️

 

江戸時代の神戸の産業・後編(素麺製造・酒造り・魚肥作り)

前編の 江戸時代の神戸の産業・前編(農業・石の切り出し・水車業・菜種油製造) - もっと KOBE ずっと KOBE  の後編です。

 

今回は、「素麺製造・酒造り・魚肥作り」の3つを紹介します。

 

素麺製造は案外④⑤の市街地・臨港地域で作られていたようです。

というのも、神戸市灘区青木1丁目2ー1に「兵庫県に於ける 素麺発祥の地」という碑が建っているのです!

素麺も、水車を使って小麦を挽いて作っていました。

魚崎町誌には、江戸後期の1790年ごろ東灘で素麺づくりが始まったとあり、「灘目そうめん」とよばれ三輪素麺と並ぶ一大生産地だったようです。

引用・出典元

兵庫のそうめん発祥地は神戸・東灘 三輪素麺と並ぶ一大生産地の歴史も | M's KOBE - 神戸新聞NEXT 

 

灘目とは、武庫川河口から生田川近くまでの約24kmの地域を指す呼び名です。

この灘目素麺は、江戸後期の1790年ごろから大正初期辺りまで作られていたようです。

そして、1867年に開催されたパリ万博・1904年に開催されたセントルイス万博で、それぞれ優秀賞に輝いた一品だったそうです!

その後も、今に至るまで細々と製造し続けられていたという「神戸素麺」

2012年、神戸セレクション(https://www.kobe-selection.jp/about/)に認定されていました。「神戸素麺 灘乃糸」

唯一神戸素麺として残っている店に、問い合わせてみると残念なことに2024年11月で製造を終了していました。

ここに、1790年ごろからおよそ234年にわたって作り続けられた「神戸素麺」の終焉を知ることとなりました。

もっと早く神戸素麺のことを知っていれば、味を楽しむ事が出来たのにとても残念で仕方がありません。

 

 

酒造りは、江戸中期に入ってから盛んに作られるようになります。

地図で見ると④⑤で作られていました。

 

東は武庫川河口より西は旧生田川界隈の約24kmに渡って「灘目」と呼ばれ、酒の産地として有名になりました。上方酒造業者の株仲間が結成された明和9年(1772年)に、灘目は上灘・下灘として二郷となり、そこに今津郷を加えた三郷が、後の灘五郷の基礎となります。

さらに、文政11年(1828年)上灘は東組・中組・西組と分かれて、東組の魚崎・中組の御影・西組の新在家、大石が中心となりました。

 

画像:1.室町~江戸時代 | 灘五郷:歴史 | 灘五郷酒造組合  より

 

そして、町人文化が華やかだった元禄時代(1688~1704)ごろから、江戸でのお酒の消費が爆上がり!江戸後期には、江戸っ子が飲む酒の約8割が灘五郷の酒だったとか・・・

大河ドラマの「べらぼう」で出てくる酒も、灘五郷の酒だと思うと見方が変わってきます (≧▽≦)

 

後に(1730年)酒運搬専用の「樽廻船」も登場し下り酒として江戸へと大量に運ばれるようになりました。

 

(画像:甲南漬資料館より)

もっと大きな酒樽で運ばれたでしょうね。

 

大関樽廻船・万両船の模型(画像提供:大関株式会社)

出典・引用:1.室町~江戸時代 | 灘五郷:歴史 | 灘五郷酒造組合 より

 

灘の酒が繁栄を続けられた理由は

1.大量の樽酒を、海路で江戸を中心に全国に運べた

2.冬の「六甲おろし」が蒸米を冷ます

3.大量の米を調達できる港があり、大正時代末には上質の酒米山田錦」が誕生

4・ミネラル豊富な、六甲山系の水が酒造りに適していた

海・風・米・水、好条件がすべて備わっていたのが神戸の灘!

そりゃ、美味しいはずだわ (;''∀'')

*1.2

 

最後は、魚肥作り

江戸時代には、イワシやニシンという魚が肥料として使われていました。

イワシは干鰯(ほしか)・ニシンは鯡粕(にしんかす)に加工されて、米や綿の栽培に欠かせない肥料となりました。

特に干鰯は、綿花との相性がよく栽培には欠かせない肥料となっていました。

江戸時代は幕府が、百姓の着物は麻か木綿と決めたことから全国的に綿花栽培が盛んになりました。そのため肥料となる干鰯も、大量に必要となって需要も増え盛大に作られるようになりました。

当時兵庫の津は魚の町としても有名で、沢山獲れた鰯や鯡などで干鰯や鯡粕を作っていました。

   

引用:https://hanaumikaidou.com/archives/9487 館山市立博物館所蔵

神戸の写真が見つからなくて、イメージを伝えたく九十九里浜で干鰯作りの写真を掲載しました。

 

その兵庫の津には北風家という諸荷物問屋があり「兵庫の津に北風あり」といわれるほど有名な店がありました。当時の当主・荘右衛門貞幹(1736~1802)は、高田屋嘉兵衛の後援をしてこの干鰯を大量に扱って、神戸の地に繁栄をもたらしたと伝えられています。

 

素朴な疑問として、干鰯といりこ(煮干し)の違いは?と調べてみると、干鰯は獲った鰯をそのまま乾燥させるだけのもので、いりこ(煮干し)は水揚げした鰯を茹でてから乾燥させたものでした。

干鰯=いりこ? 肥料を出汁に使っていた?と、一瞬思ったのが違っていて安心しました(笑)

 

こうして江戸時代の神戸は、海が近く山も近い、地の利を生かして色々な産業が発展していったのですね。

先人に感謝しながら、今の神戸を愛していきたいです。

 

 

*1.江戸時代の神戸 ☆ 酒・物流・兵庫の津・参勤交代・本陣 - もっと KOBE ずっと KOBE

*2.神戸と言えば「灘五郷」! - もっと KOBE ずっと KOBE

 

 

いいね。やっぱり神戸が好き

もっとKOBE ずっとKOBE

ではまた、次回をお楽しみに♥

 

ゆく河の流れは、、、やっぱり境界か

兵庫(実は神戸)を開港したときに定められた外国人居留地があまりに狭いということで、居留地西側境界の鯉川から宇治川までを雑居地として、外国人が住んでもよいということになった。この雑居地において、神戸特有の「異文化との交流」の風土が育まれたことは以前のブログでも紹介した。

まずは、外国人居留地と雑居地を地図で見てみよう。雑居地の西の境界は宇治川、北の境界は山麓付近までとなった。外国人が住んでもよいというエリアはずいぶん広がったことがわかる。

 

(国土地理院地図 GSI Maps に上書き)

 

外国人は見晴らしの良い山麓付近を好んだようで、多くは、今の北野異人館街と言われるあたりに居を構えた。そこから現在のトアロードを下って居留地のオフィスに通勤する感じだったのか。居留地と雑居地とを地図上で領域を分けるのは簡単だが、居留地治外法権だったし、運営は色々と大変だったろうと思う。

 

(居留地の西側境界の鯉川の記事はこちら)

poko2023.hatenablog.com


今回は、雑居地の西側境界となった宇治川を辿ってみようと思う。以前紹介した外国人居留地の西側境界の鯉川は、河川としては流量も少なく、街の中を開渠・暗渠を繰り返し、どこを流れているのかわかりにくかったが、宇治川は流量も十分で、どこを流れているのか迷うこともない。

 

けっこう急な勾配(地図上①)

上流は再度谷川だ。神戸山手グローバル中学校高等学校(神戸山手女子中学校高等学校が共学になって名前が変わった)のあたりから下っていくことにしよう。(地図上①)
けっこう急な坂を下って、バスが通る幹線道路の下をくぐる。(地図上②)

 

左:幹線道路より北を見たところ
右:幹線道路より南側から

 

幹線道路から少し下って、地図上③のあたりは、河原を歩けたり、広場もある。雨で水量が増えていないときは散歩もいいだろう。

 

河原まで下りていける
広場はバーベキュー禁止になった

 

再度谷川が上流の宇治川は、途中で平野谷川が合流してくる。(地図上④)

平野谷川は町中を縫うように流れている

 

合流すると流量もそれなりに増えてくる。晴れている日はそうでもないが雨の日は、そこそこの水嵩になる。(地図上⑤)

 

今は流量が少ない

 

実は、この宇治川は地元では桜の名所でもある。桜の時期には、このあたりはけっこう賑わう。桜の時期(ちょっと出遅れているが)に撮った写真があったので載せておこう。(地図上⑥)

 

満開のときはもっときれい

 

このあたりまでは、ずっと開渠だが、ここを少し下ったあたりから暗渠になる。ここから暗渠だというのは誰が見てもわかるぐらいはっきりしている。宇治川暗渠調整池と呼ばれる3段階ぐらいの大きな水溜めと、その上には水門のような構造物があり、そこから先は地下を流れる暗渠となっている。(地図上⑦)

 

3段階ぐらいで広くかつ深くなっている
街中に突如現れたようで異質な感じ

 

宇治川は道路の下をくぐる地下道のさらに地下を流れている。そのまま宇治川商店街の地下を流れていき、ハーバーランドのあたりが河口になっている。(地図上⑧)

 

川が突然途切れて地下道になったように感じる

 

宇治川の暗渠は 50年以上前からあったようだが、先ほどの大きな暗渠調整池や水門のような構造物は、水害がきっかけだったようだ。昭和42年7月の西日本の集中豪雨。き今なら線状降水帯と言うんじゃないだろうか。小学生の頃だったが、凄い雨だったことを覚えている。この豪雨で山から大量の土砂と倒木が流れてきて、暗渠の入口をふさいでしまって、地下ではなく地上の商店街に濁流が流れ出した。

 

(神戸市のホームページより)

 

この水害をきっかけに昭和47年に先ほどの宇治川暗渠調整池が造られた。なるほど、あの大きな調整池を見ると大量の土砂が流れてきても、そう簡単に暗渠の入口を塞いでしまうことはないんじゃないかと見てとれる。実際、昭和42年の水害以降は、宇治川の氾濫はないと思う。

 

宇治川商店街の入り口
(メルカロード宇治川

 

雑居地の西側境界の宇治川を辿ってみたが、雑居地との関係について全く書けていないので、そこはまた別の機会に調べてみることにする。

オマケというわけではないが、この宇治川が暗渠になる前、ずっと昔のことかもしれないが、頻繁に氾濫していたのではないかと思われる証が存在する。宇治川下流の流域に走水(はしうど)という名前が残っている。昔は走水村、今は通り名に走水通という名前があり、そこには走水神社がある。「走水」読んで字のごとくかと思っている。

 

左:元町商店街からもアクセスできる

 

昔から河川は輸送路の手段のひとつとして、地域の商業流通の発展に関わってきた。流域の村や町の発展の歴史でもあったはず。ところが神戸の河川には、そういう役目は期待できず、単なる地域の境界でしかなかった。そして、氾濫に対する対策を繰り返すことで土木技術が発展してきたように思う。それが神戸という街の発展の歴史の一つかもしれないと思った。

 

いいね やっぱり神戸が好き

もっと KOBE ずっと KOBE

ではまた次回をお楽しみに ♣︎

 

お参りだけじゃない、生田さん

神戸の街の真ん中にある生田神社は、約1800年以上の歴史を誇る日本有数の古社です。
神戸では「生田さん」として親しまれています。

電車で西の方から三宮へ向かうと、電車越しに神社を見ることができます。
ビルの谷間に鳥居や社殿がとても窮屈そうに見えますが、北に向かって広がる境内には本殿だけでなく、14社もの社があるうえ、いくつもの史跡があって盛りだくさんの神社です。

灯籠で見えにくいですが、生田神社の社格官幣中社です

受付には、華やかなお守りや絵馬にはファミリアのもあります

楼門のすぐ左に境内の見取り図・右に花手水

神社を訪ねた6月末は、夏越の大祓(なごしのおおはらえ)の茅の輪くぐりをすることができました。

写真に撮ったのはほんの一部ですが、14もの社が本殿を囲んで建っています。

歴史は神代の時代から

古事記日本書紀によると、神功皇后(じんぐうこうごう)が 西暦201年に三韓外征(さんかんとうばつ)の帰途、今の神戸港で船が進まなくなったため神占を行ったところ、稚日女尊(わかひるめのみこと)が現れ、「私は活田長峡国(いくたながおのくに)に居りたい」と申されたので、海上五十狭茅(うながみのいさち)という者を神主として祀られ、海は平穏になり船を進めることができたそうです。

「『イクタ』にとどまりたい」と主張した理由は、稚日女尊(わかひるめのみこと)は本来、神戸の産土神だったからと考えられます。
稚日女尊(わかひるめのみこと)は機織りの神さまなので、神戸にアパレルメーカーが多いのか!なんてちょっと納得しました。
三韓征伐(さんかんとうばつ)は、日本書紀古事記に記述があり、神功皇后率いる倭国の軍が朝鮮半島新羅百済高句麗を降伏させた戦い。

生田の森の中にある神功皇后の社

気持ちがおちつく 生田の森

山陽道(西国街道)沿いにあることもあり、源平の戦いの史跡が残り 本殿背後の生田の森は街中とは思えない静けさがあり、古戦場であったことを思うと寂しさのようなものも感じます。

時代の苦難を乗り越えてきた歴史をみることもできます。

安政(江戸時代末期)の大地震で折れた鳥居の一部

神戸空襲で焼けただれたご神木

生田の森の中にはこんな碑も、♪ てっちゃん てっちゃん かねてっちゃん! ♪


生田の池

拾遺和歌集を始め、順徳院百首、夫木和歌抄(ふぼくわかしょう)などに多く「生田の池」の詠歌が載せられており、当時より名だたる名勝として知られた池です。

「生田の池」の前の蓮の花はこれからが見ごろ

もしや北野川の水路では?

神社としてだけでなく、史跡や歌碑のいくつある生田神社に謎の水路のようなものを見つけました!
「北野川」は地下河川なので、ほとんどが暗渠(あんきょ)になっています。
風見鶏の館のさらに山の方に北野川の源流らしき沈砂池(ちんさち)があります。
雨上がりということもあり、水路の水は流れていました。

この楼門に向かって左右にある溝

これが幻の北野川の一部かどうかは今後のお楽しみ。

生田さんのいいとこを伝えようとして、肝心な主祭神のことを書くのを忘れていました。
主祭神 稚日女尊(ワカヒルメノミコト)
家庭生活をお守り下さるご神徳があります。
結婚やお子さんの誕生、七五三、年末年始など節目のお参りに気軽に訪れる人が多くいます。

 

いいね やっぱり神戸が好き

もっとKOBE ずっとKOBE

ではまた次回をお楽しみに♦

 

生田神社
神戸市中央区下山手通1-2-1
TEL:078-321-3851
URL:https://ikutajinja.or.jp

250年前の水車産業革命の跡

前回の中の灘目の水車について書きます。記事にあるように「灘目」とは西宮から神戸にかけて(東は武庫川から西は旧生田川)の旧郷名で1764年ごろから使われていたようです。(灘五郷酒造組合HP)

poko2023.hatenablog.com

 

令和3年に「神戸歴史遺産」制度の創設され、第三回(令和5年)、第四回(令和6年)に住吉川の水車小屋跡が認定されました。従前からの神戸市指定文化財(580件)に加え、地域の人々により守られてきた未指定文化財や歴史遺産を未来に継承することを狙いにしている。ふるさと納税等による寄付金と同額を神戸市が負担して神戸市市民文化振興基金として助成して、神戸歴史遺産の維持・継承を行うようです。

 

住吉川の水車小屋跡

神戸歴史遺産の第四回登録の説明記述は以下のようになっています。

 

15.住吉川の水車小屋跡( 左岸八輌場・五輌場地点)

住吉川は六甲山系中では豊富な水量があり江戸時代から水車による絞油や精米などが盛んに行われてきました。酒造業の活況により数を増やし、大正時代には80輌もの水車がありました。その後は時代の変化により減少し、1979(昭和54)年を最後に住吉川の水車小屋は姿を消しました。現在は、水車小屋跡の石垣や水車が回っていた水路跡などが残っています。申請団体は当地の草刈りなどを行うとともに、見学会や勉強会を実施し、神戸の地場産業支えた水車小屋の存在を広く知っていただく活動を行っています。

https://kobe-rekishiisan.city.kobe.lg.jp/about/

https://www.city.kobe.lg.jp/documents/47637/nintei_4.pdf

 

水車小屋跡は「水車を未来につなぐ会」によって維持活動が行われて、そこから発行されている「水車の森」パンフレットに沿って散策しました。

水車の森MAP(「水車を未来につなぐ会」のパンフレットより)

スタートは東谷橋で約1kmの森の中の散策です。

東谷橋より住吉川を渡り、古い石積みで造られた道を登って行きます

約250年前には産業に幹線道路であったことを思い浮かべて一歩一歩踏みしめて行きました。周辺には当時の石臼が転がっています。

石積みの上の道と道端に転がっている石臼

「どんぐりの広場」から「銀杏の広場」にかけては通り過ぎてしまいそうな滝壺の跡が数カ所ありました。

水車の滝壺跡がはっきりわかる
見逃してしまいそうな滝壺跡を探しながらどんどん登って行きます

この道を牛が4、5俵の米俵を積んだ牛車を引っ張り上げたと思うと当時の苦労がうかがえます。

昔の活気ある状況を伝える写真(菊正宗提供)

 

銀杏のひろばには石臼が残っています。このエリアにはおおよそ1万個の石臼があったようで活気ある精米作業が行われたことが想像できます。臼には搗き臼(ツキウス)と挽臼(ヒキウス)があり、水車小屋では水車の動力で杵(キネ)を搗き臼に落として玄米を精米したようです。時代により麦を小麦粉にしたり、菜種を粉砕して油を搾り摂ったようです。精米では水車の動力を使うことで足踏み式に比べて生産性が大幅に向上してそれが酒作りを大きく変えることになり、灘の酒作りが大きく発展しました。

周りに転がっている石臼と水車小屋跡

水車小屋が連なっておりその水は上流から下流へ利用されました。そのための水路が残っています。昔は満々と水が流れていたのだろうと想像します。さらに木橋を渡ると小さなお地蔵さんが鎮座しています。当時の人はどんな想いでお地蔵さんにお供えをしていたのでしょうか。

水路跡と小さなお地蔵さん

水車ひろばには立派な滝壺が残っています。幅は約80cmで深さは2m以上あります。6m近い水車が回っていたという記録が残っているようです。滝壺から暗渠を通じて下流に水が流れ、次の水車へつながっていきます。

直径6mに及ぶ大きな水車の滝壺跡。深さは2m以上
上から流れてきた水は水車を回して滝壺に落ちて暗渠に流れ出す
暗渠を数メートル通って出口からさらに下の水車に流れる

水車の構造

「桜のひろば」には最も上流の水車小屋があったと思われます。上流の住吉川から水を引くために数百メートルの長い水路が造られて、ところどころに立派な石積みが残っています。導水路はかろうじて残っているものの災害の度にだんだん崩れていくのだろうと思うと寂しくなります。8棟の水車小屋に水を送り、6mもある水車を次々と動かす一大工業地帯であったと思います。そのための1kmに及ぶ水利計画はすごいものだと導水路跡を歩きながら思いました。

桜のひろばの水車小屋跡

導水路のための石積み

導水路

最後に木橋を渡りゴール。標高差85mの水車の森は250年前の工業団地に違いない。住吉川の豊富な水量と六甲山の標高差をうまく利用した一時代前の産業革命であったに違いありません。

ゴールの木橋

いいね。やっぱり神戸が好き。

もっとKOBE ずっとKOBE

ではまた次回をお楽しみに♠️

 

江戸時代の神戸の産業・前編(農業・石の切り出し・水車業・菜種油製造)

徳川幕府300年という、長く続いた太平の世の中で神戸に住んでいた人々は、どんな暮らしをしていたのかを調べてみました。

 

当時の神戸市は、摂津国莵原(うはら)群・有馬郡・八部(やたべ)郡・播磨国明石郡・美嚢(みのう)郡という5つの群にまたがっていました。

その中には、明石藩領・旗本領・尼崎藩領・三田藩領・田安家領・幕府領(天領)などが点在していました。

神戸の村で有名なのは、神戸村・二ツ茶屋村・走水村ですが、調べてみると村は点在どころか、無数の村が存在していたことが分かります。

下記の地図は、幕末期近世村領域データです https://geoshape.ex.nii.ac.jp/nrct/#method-honda

がすべて、村がある場所です。

引用:神戸村「日本歴史地名大系」地名項目データセットよりhttps://geoshape.ex.nii.ac.jp/nrct/resource/29/290000034600.html

まだ、北区・西区の北の方にも村が点在していますが割愛しています。

そのような村の中で人々は、農業・石の切り出し・水車業・菜種油製造・素麺製造・酒造り・魚肥作りなどに従事していました。

 

どの辺りでそれらの産業が行われていたか思いを馳せてみます。

神戸の地域の区分図では大きく、5つの地域に分けられています。

引用: 

http://file:///C:/Users/chie/Downloads/19782_1_%E7%A5%9E%E6%88%B8%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88%20(14).pdf P2より

 

農作物は①②で主に作られていたようです。

米・麦・大豆・蕎麦は、年貢用と自分たち用に作っており、西区あたりでは小松菜・キャベツ・ほうれん草・菊菜などの、葉物野菜がたくさん作られていました。

 

石の切出しは③あたりでしょうか・・・

神戸から切り出された石は「武庫御影石」といわれ、特別な石として扱われていました。

「日本山海名産図会」には、摂州武庫、莵原の二郡の山中より出せり 、また「摂州名所図会」には、武庫の山中より多く石を切出し・・・牛車の力をもって日々はこぶこと多し と書かれています。

この六甲山から切り出された花崗岩のことを御影石と呼んでいました。とても固いという特徴があり、石橋や伽藍の礎石・鳥居・燈籠・手水鉢などに使われました。

今でも、六甲山系から切り出される御影石「本御影」といわれブランド石となっています。(引用:ひょうご歴史の道 〜江戸時代の旅と名所〜   より)

 

引用・出典https://www.city.kobe.lg.jp/documents/15381/2cg_rekishi_kinsei.pdf P12‣13

ちょうど今でいう、東灘区にある荒神山から切り出していました。荒神山住吉川の上流で山陽新幹線と交差する手前、ちょうど住吉霊園の南側にあります。

 Googleマップより

一頭の牛が、大きな石を海の近くまで運んでいたなんて、ショベルカー並みの力持ち!

当時の力仕事には、牛の存在が欠かせませんでした。

 

水車業は全域にあったようです

「水車業」?聞きなれない言葉ですよね。

調べてみると、江戸時代中頃に新しく田を開くことと水車を使って仕事をする事を目的に、水車新田村が作られました。その後、都賀川上流の傾斜面の川水を利用して、灯油用に菜種を絞る目的での水車業が盛んになったようです。

下記の地図、一番上に青の下線を付けた所が水車新田です。

今の灘区の北部あたりに位置しています。

ところが、農民は年貢を納める為に米作りに専念しなさい!という幕府の統制により原料の菜種が手に入りにくくなりました。また、日本各地に水車業が起こったこともあり灯油を止めて、灘の酒専用の米を作りその米を水車で米を搗き、酒造りのために水車業を続けたようです。

これも神戸の、山と海が近く川が多く・傾斜も多いという地形を利用した産業といえます。

  

引用:https://www.city.kobe.lg.jp/documents/8008/keikaku01.pdf  P3より

本当に、川だらけ!(;''∀'')

 

特に有名だったのが「灘目の水車」

住吉川流域に、最盛期には88基ありました。当時の水車をしのび、住吉山手に大小2基の水車が「山田太郎車・次郎車」と名付けて再現されています。

手前の小さい水車が次郎車・奥の大きい水車が山田太郎車です。

灘目の水車:神戸市東灘区住吉山手4丁目1-26

youtu.be

凄い迫力ですね!

 

水車の中ではこんな風に作業が行われていたようです。

菜種や米はこんな風に水車の回る力を利用して、一度にたくさんの臼で搗いて量産していたのですね。

原動力は、自然の川の流れなので24時間休むこともなく搗き続けていたので、効率はとても良かったでしょう。

 

さて、今回は農業・石の切り出し・水車業・菜種油製造までをご紹介しました。

後編は、素麺製造・酒造り・魚肥作りを紹介します。

 

いいね。やっぱり神戸が好き。

 

もっと KOBE  ずっと KOBE

 

ではまた次回をお楽しみに

 

行く河の流れは、、、どこ?

以前に生田川の付け替えの話を書いた。外国人居留地の東の境界であった旧生田川のたび重なる氾濫に、居留地に住む外国人から堤防の改修をしつこく要求され、改修工事より付け替え工事に踏み切ったという話。氾濫する天井川が付け替えられて、東の境界はひとまず一件落着。では、外国人居留地の西の境界は? というと、それは「鯉川」だった。

鯉川は氾濫するような大きな河川ではなかったが、生活排水のため悪臭がひどかったらしい。居留地に住む外国人から「臭くてたまらん、何とかしてくれ」とクレームが絶えなかったと。そこで、明治7年に暗渠化となった。

ということで、今回は暗渠化された「鯉川」を辿ってみようと思う。

 

(国土地理院 GSI Maps より)

 

地図上右側の旧生田川に関しては、以前のブログで記事にした。こちらを参照いただきたい。

poko2023.hatenablog.com

 

今回取り上げる「鯉川」は、現在「鯉川筋」という通りの名前で、その存在を知ることができるのだが、暗渠ゆえに川そのものの存在を実際に目にすることはほとんどない。鯉川筋は広い道路で、その地下に鯉川が流れているのだろうと想像できるのだが、それより上流の方がよくわからない。神戸市立中央図書館で調べたところ、地図上の青色のルートであることがわかったので、上流から見てみることにした。

地図上①の付近に ⛩️ がある。青龍神社である。北野天満神社の境外末社である。

 

龍神

この青龍神社の裏あたりを起点として下ってみたい。(地図上①のあたり)

水の流れはチョロチョロ

雨が降ったら、もう少し流量はあるのだろう。このあたりの傾斜は急で一気に下る感じだ。

道路の下をくぐっていく

道路の下をくぐったら、駐車場と民家の間に出てくる。(地図上②のあたり)

ちょっとわかりにくい場所だ

民家の裏を開渠・暗渠を繰り返しながら流れていく。(地図上③のあたり)

河床はレンガのようだ

旧北野小学校の校庭の裏あたりを流れていく。

(北野小学校 ⇒ 北野工房のまち ⇒ 北野ノスタ と移り変わっている)

現在の北野ノスタ裏の公園の脇を流れていく

このあたりも開渠と暗渠を繰り返し、なかなか追いにくい。(地図上④あたり)

開渠はこのあたりまでか
ここからは暗渠に

山手幹線まで下ってくると、ここからはずっと暗渠となり、鯉川筋という通りの名前しか川の存在を示すものはない。(地図上⑤のあたり)

この道路の下を流れているはず

JR元町駅東口方面に向かって、まっすぐ下ってみる。(地図上⑥のあたり)

歩道には鯉が泳いでる

元町駅バス停付近の歩道には鯉が泳いでいる。鯉川というだけあって、昔は本当に鯉が泳いでいたのだろうか。

河口付近はわからないので、大丸前ぐらいを最後にしよう。(地図上⑦のあたり)

きっとこの先が河口なんだろう

鯉川をずっと追ってみたが、旧生田川のように氾濫するような川ではなかったが、生活排水で悪臭がひどかったから暗渠にされた鯉川。昔はどんな姿だったのか、鯉は居たのかなどと考えてしまう。

それはさておき、旧生田川と鯉川を境界とした外国人居留地。地図を見ても、あまりにも狭いんじゃないか。ちなみに横浜の外国人居留地は神戸の7倍ぐらいの広さだったとか。外国人をこの領域内に留めておきたいという当時の意図はわかるが、ちと狭すぎたようだ。

結局、西側の境界を宇治川まで広げて、そこを雑居地として、外国人の居住を認めた。北側の境界も山麓までが雑居地となった。この雑居地における外国人との共生こそが、神戸特有の「異文化との交流」風土を育んだことには違いない。

ということで、また近いうちに、雑居地の境界となった宇治川も追ってみようかなと。

 

いいね やっぱり神戸が好き

もっと KOBE ずっと KOBE

ではまた次回をお楽しみに ♣︎

 

垂水さんぽ 帰りたくない秘密の館

明石海峡を望む神戸市垂水区の高台の星陵台から、南に下る坂は驚くほど急な坂道。
特に愛徳学園のある愛徳坂は水筒でも落とそうものなら、山陽電車の霞ヶ丘の駅まで転がっていきそうな急勾配の坂道です。
この坂が少しなだらかになった歌敷山1丁目に、お訪ねした「秘密の館」があります。
珍しいものが観られるこの場所は、正式名を「絵葉書資料館」と言います。
歌敷山の閑静な住宅街一角に建つ立派な邸宅は、館長さんのご両親のお住まいでした。


「絵葉書資料館」はインターフォンを押して館内に入れてもらいます。(私が訪ねたときは、3日前までの事前予約が必要でした。)
受付すぐから始まる、絵葉書の展示数は「えっ!」と声が出てしまうほど圧巻です。

壁にびっしりと展示されている絵はがきですが、カテゴリーに整理されているので観やすく、すぐ目の前で観られるので繊細な描写や紙質まで感じ取ることができます。
絵はがきの歴史や世相の説明もあり、単なる絵のついた「はがき」でなく時代のトレンドがそこに表現されていている、身近なアートだったことがわかりました。

 

正面のボックスをのぞくと、透かし絵はがきが観られます

ネコちゃん好きにはたまらない!

ここには昔の神戸の風景の絵はがきも多数あり、復刻版を購入することができます。専用コーナーがあって、そこに座りながら何冊ものファイルからゆっくりほしい絵はがきを選べます。
展示されている絵はがきの一部の複製も購入できるのでうれしい。
大正ロマンの絵はがきが販売されているコーナーには、少女マンガの草分け中原淳一が描いた少女たちもあり、うわっ!とうれしくなりました。

そうそう、絵はがき以外にも「滑稽新聞」、すごろく等もあって初めて観る文化に興奮して、時間を忘れてしまいます。


秘密の館は2階もあり、「神戸ドールミュージアム」と「神戸時計デザイン博物館」が併設されています。
こちらも絵葉書資料館と同様に、所せましと珍しい西洋のお人形や時計の数々が展示されていて、懐かしさや・珍しさ・美しさなどいろんな感情が混じって見入ってしまいます。

神戸ドールミュージアム

神戸時計デザイン博物館

ドールミュージアムのお人形たちの中に、ひっそりと「人形交流」の写真や絵はがきも飾られていました。

アメリカからの交流人形を抱く少女たち

左は日本から送った答礼人形の一体、ミス茨城

poko2023.hatenablog.com

見どころ満載の「絵葉書資料館」とその2階の「お人形」と「時計」ですが、まだ3階があります。ここには館長さんの撮られたきれいな夕焼けや明石海峡大橋の写真が展示されています。
そして最後にこの3階のベランダから明石海峡大橋を眺望することができます。
淡路島を借景に威風堂々とそびえる大きな橋と包み込むような柔らかな海峡の水面の風景を観ることができる、とっておきのスポットです。
※訪問した日は、雨が強く素晴らしい眺望をお届けできず残念でした。
前に撮った写真でご勘弁ください。

歌敷山の東の五色山にある五色山古墳からの明石海峡大橋

私が勝手に「秘密の館」と呼んでいますがHPもあり誰でも行けるので、是非 お訪ねください。タイミングがよければ館長さんがいらっしゃって、お話しすることができますよ。

 

いいね やっぱり神戸が好き

もっとKOBE ずっとKOBE

ではまた次回をお楽しみに♦


絵葉書資料館 https://www.ehagaki.org/

◇所在地 〒655-0037 兵庫県神戸市垂水区歌敷山1-7-20
◇開館日 時間
  予約制 火・木・金(不定休館日:盆・年末年始)
  予約電話:078-327-4680
  11:00~17:00

◇入館料 
 大人:500円(高校生以上) 小人:400円(小中学生)
 ①絵葉書資料館  ②神戸ドールミュージアム・神戸時計デザイン博物館、2館共通割引券。
 他優待割引の併用はできません。
 大人:1300円 (高校生以上)  小人:1000円(小中学生)

◇アクセス
山陽電鉄霞ケ丘駅より徒歩7分
・JR垂水駅西口より山陽バス1系統愛徳学園前下車徒歩3分
・JR垂水駅西口よりタクシー1メーター
・車でも行けます。近くに駐車場有

※絵葉書資料館のホームページより

神戸ドールミュージアム http://timeroman.com/kobedollmuseum/
神戸時計デザイン博物館 https://www.kobe-clock-design-museum.org/

 

衰退からよみがえる六甲アイランド

まち開き(1988年)をして37年になる六甲アイランドを散策しました。

六甲アイランド中心部イラスト(神戸べシェラトンホテル提供)

 

六甲アイランドの歴史

三宮沖のポートアイランドの造成に次いで、六甲アイランド造成は、1972年〜1992年(昭和47年~平成4年)に行われた。神戸市の「山、海へ行く」といわれたこの開発事業では、背後に六甲山地が迫り前面を深い神戸港に阻まれた地理的ハンディキャップを克服するため、山を削った跡地の住宅団地造成と海面の埋立て事業の両面作戦がとられた。

渦が森から土砂を運ぶための住吉川のダンプ道
1日約1000台のダンプカーが行き来して、6年間で延べ190万回、計800万m3の土砂を運んだと言われている(神戸新聞 M's KOBEより)

六甲アイランドは、周辺部はコンテナ用港湾施設や食品加工施設などの産業空間、中央部は住宅・商業施設・レクリエーション施設の生活空間に区別して、住民にとっては快適な生活環境が提供されている海上都市。人口はまち開きから増え続け2万人近くまできたが、近年は停滞気味。

 

六甲アイランド都市機能用途 (新都市整備事業の概要_兵庫県より)

□伝説のレジャーパーク「AOIA」

「AOIA」は1991年オープン。当時世界最大で50本もの巨大なウォータースライダーは最長151m、総延長距離が6Km ウォータースライダーを有し、周囲を流れる流水プールも日本最長の740mの長さ。年間200万人が訪れる関西を代表するレジャースポットだったが、1995年の阪神淡路大震災で壊滅的な被害を受けて営業再開は出来ず、わずか4年間で閉園した。パーク内の観覧車はハーバーランドUmieに移設、今は神戸港のシンボル的存在になっている。

伝説のレジャーパーク(神戸新聞NEXT、ジャーパンアーカイブスより引用)

□外国人のビジネスマンが多く住むまち

P&Gジャパンが1993年に本社を大阪から六甲アイランドに移転され研究開発部門を併設、それに併せて外国人エグゼクティブ向けの高級タワーレジデンスの建設、神戸ベイシェラトンホテル&タワーズも開業した。また、1997年には神戸ファッションプラザがオープンし、MOVIX六甲(最新のシネマコンプレックス施設)、専門店街、神戸ファッション美術館、神戸ローザンヌホテル(1998年にはホテルプラザ神戸)が併設され、1995年の震災も乗り越えて、活気に満ちていた。

旧P&Gビル、神戸ベイシェラトンホテル、神戸ファッションプラザ

□忍び寄る衰退

しかし、P&Gアジア本部が日本からシンガポールへ移管(2009年)、P&Gジャパン本社・研究開発部門が三宮へ移転(2016年)されて、2005年頃からは最新のシネマコンプレックス施設がHATや三宮、西宮に次々とオープンしてMOVIX六甲からは客足が遠のいて行き、2010年には遂に閉館に追い込まれた。それに伴って客足が減り、商業施設は2011年から2018年にかけて次々と閉館した。

 

□全ての施設の所有者が交代

神戸ベイシェラトンホテルを引継いだホテルニューアワジは敷地内で温泉を掘削(2013年)して、3階に神戸六甲温泉・濱泉を開業し、和のテイストを付け加えてテコ入れした。P&Gビルは売却され(2014年)、アジア・ワン・センターとなり、アジアのベンチャー企業の支援拠点になった。プラザホテル神戸も2011年に進和ホテルズが経営権を取得して立て直しを図った。商業施設は再建をかけて公募が行われて所有権を大栄環境が取得(2019年)。全ての所有者が交代することになった。

 

■現在の六甲アイランド

ティーヒルと呼ばれている住宅地の外周に一周5Kmのウォーキングやランニングに適した土の道がある。車の侵入や信号はなく、約19万本の木々が植樹されている。木々も40年に近くなると大きく育ち里山のような雰囲気を出している。六甲ライナーのアイランド北口から散策して南の端のマリンパークを目指した。

ティーヒルの道

里山のように木々が大きく繁っている

南国を思わせる椰子やフェニックス

甲南大学のグランドが大きく広がる(野球、アメフト、サッカー、陸上競技、テニス)

 

ティーヒルの南の端がマリンパークにつながっている。今年4月に海釣りゾーンがオープン。ゴミのない綺麗な釣り場を狙いにした予約制で道具のレンタルや餌も完備。釣り用品のMAXが管理して新しい釣り場のコンセプトでスタートしている。ハマチ、ブリ、スズキなどの大物回遊魚も期待できるらしい。公園内には「feel」カフェ、クラフトビール醸造所「 IN THE DOOR BREWING」、BBQ広場 が完成し、さらに、親水公園、芝生広場などが工事中。今年の夏はリニューアルしたスタイリッシュなマリンパークを楽しめそうで楽しみ。

西側のはるか先には神戸港が見渡せる
フィッシングエリアが指定されて綺麗に管理されている
地ビール醸造所やカフェもあり気分は最高

ハンモックベンチや親水公園など整備中

■リバーモール周辺

上記の歴史のように、ほとんどの施設の所有者が変わり新しいまちへ生まれ変わろうとしている。ベイシェラトンは温泉「濱泉」は一味違う高級感があふれ人気のようだ。神戸ファッションプラザでは2024年5月にはちょっと変わったスーパーマケット「ヤマダストアー」がオープンして播州や地元の評判の高い食材が並んでいる。例えば明石魚の棚の黒谷商店のうなぎ、「ヤマダの牛乳」は搾乳日・製造年月日・消費期限を表記したこだわり様。リバーモールは小洒落たカフェやレストランがひっそりと営業を続けて裏町の雰囲気を醸し出している。

高級感を守り続けている「神戸ベイシェラトンホテル」
個性的なスーパーマケット「ヤマダストアー」

神戸ファッションマートには子供たちが集まる
リバーモールは裏町の雰囲気がオシャレ

保育所、幼稚園から大学まで学校や教育施設が揃っている中で
海外の教育スタイルのカナディアンスクールは人気が高い

 

落ち着いた戸建の住宅と街角の銅像

■季節毎に行われる地域イベント

季節に応じてイベントが行われ、その集客力はすごい。「ハローウィン」での仮装行列は神戸市内でも有名になっている。「サマーフェスティバル」はたくさんのお店がオープンして盆踊りも開催されて楽しい夏祭りになっている。また季節によってチューリップ園、バラ園では華やかに花が咲き乱れ素晴らしい。

昨年11月のハローウィンフェスティバル

4月のチューリップ祭り
5月のバラ園

1988年にまちが生まれ、人口も増え、学校やレジャー施設も出来て、活気にあふれていた。1995年の震災を乗り越えて発展が続いたが、2010年ぐらいから客足が減り衰退が始まった。商業施設は経営が続かなくなり次々と閉店され、住民も買い物は島以外で行うようになった。その後、ホテルや商業施設、ビルの所有者が新しくなり、2019年から神戸ファッションプラザの経営も新しくなった。再開発を要請する住民や議員の声が大きくなり神戸市も予算を確保して2025年にはマリンパークも再開発完成予定。まちは衰退と発展を繰り返しながら成長していくものだと思う。10年後20年後の六甲アイランドはどうなっていくのか楽しみだ。

 

いいね。やっぱり神戸が好き。

もっとKOBE ずっとKOBE

ではまた次回をお楽しみに♠️

 

江戸時代の神戸 ☆ 酒・物流・兵庫の津・参勤交代・本陣

いよいよ江戸時代に入ってまいりました!

 

江戸時代も神戸の町は、「兵庫の津 」と「西国街道」でとても繁栄していました。

1619年(元和5年)と言いますから、江戸時代初期のころに菱垣廻船が始まり、大阪・兵庫・江戸を行き来する航路が出来ました。

出典:https://www.city.kobe.lg.jp/documents/60534/tokusyunadanosyuzogyo.pdf  P13より

 

主に、菱垣廻船は江戸に日用品を運ぶのに使われていました。

この菱垣廻船で運ばれたものの中に「江戸積みの酒」がありました。

徳川家康江戸幕府を開いてから、江戸の町の人口は膨大となり彼らの生活を賄うためには。大量の生活物資が必要でした。その中に神戸で作られた「灘の酒」も含まれていました。

 

元禄時代には、下記の表のように神戸では大量のお酒が造られていました。

 

出典:https://www.city.kobe.lg.jp/documents/60534/tokusyu-nadanosyuzogyo.pdf  P6より

 

神戸以外のところもありますが、シッカリとお酒の管理がされていますね。

というのも、お酒は米が原料なので幕府や領主により厳重に統制されていたのです。

不作の年は、「減醸令」のお触れが出されて酒造りに使用する米に制限がかけられました。(今の誰かさんに聞かせてやりたいね)

 

ところが、1754年(宝暦4年)に「勝手造り」の令が出されて、新規営業者・休業者も届け出さえすれば酒造業を営むことが出来るようになるのです。

そこから、江戸積み酒造業に含まれていなかった「灘・今津」の酒造家が台頭して、1754年(享保9年)の江戸下り酒問屋の調査に、灘・今津の名が江戸積み酒造地として挙げられています。

下のリストは、その享保9年の下り酒の産地と酒造家数です。

色付けした所が神戸の地で、総勢65件の酒造家が居たことが分かります。

出典・引用:https://www.city.kobe.lg.jp/documents/60534/tokusyu-nadanosyuzogyo.pdf P10より

 

宝暦の頃は上記の地域はひっくるめて「灘何村(なだむら)」と呼ばれていたのが、明和になると「上灘目」「下灘目」と呼ばれ、さらに安永5年(1776年)には、「上灘江戸積酒家中」「下灘江戸積酒家中」という名称が「灘酒経済資料集成」で見られるようになり、当時の神戸における江戸積み酒造業の発展が伺えます。

 

このころには酒を専門に運ぶ樽廻船が作られ、兵庫の津からも江戸を目指して出航していたようです。

 

兵庫の津は江戸時代に入っても、神戸の地に経済の発展をもたらしていたのが分かりますね。

 

また、江戸時代の西国街道

西国の大名たちの参勤交代の通り道となっておりました。

 

当時の西国大名で有名な所は、毛利(今の山口県東部と西部)島津(今の鹿児島県と宮崎県南西部)大友(今の大分県と福岡県南西部)・細川(今の熊本県と福岡県の一部)尼子今の島根県西部と岡山県西部)大内(今の山口県防府市山口市と福岡市、広島県の一部)などが挙げられます。そのような大名たちが、今も残る神戸市内の西国街道大名行列で練り歩いていたと思うと妄想が止まりません(笑)

 

想像してみてください!

今も残る西国街道を1,2kmにわたって、元町商店街があります。

あの商店街の道筋を、西国大名のお歴々が行列をなして通っていたところを想うと土下座してしまいそう… (=^・^=)

 

そして、大名行列につきものの本陣!は、兵庫の津にある本宿でした。

柳原惣門を入って神明町に来ると、西側に井筒屋(衣笠)又兵衛の本陣があり、本陣に南接して明石家宗兵衛・小道を隔てて西側の小広町に豊島屋宗兵衛・同町の東側に桝屋長兵衛(または長左衛門)・その南隣に三木屋作右衛門の4件の脇本陣があった。

出典:神戸市兵庫区:兵庫津繁栄の時代 

引用 : 摂州八部郡兵庫津宿之図(写)|神戸市立中央図書館 貴重資料デジタルアーカイブズ

絵の文字が薄くて、黄色矢印の先の建物が旅籠屋と読めます。

 

おそらくこの辺りに本陣があったのではないかと推理して、今の地図と照らし合わせてみました。

赤の実線が西国街道

白抜き赤点線囲みの区域が、神明町です。

そこに、井筒屋(衣笠)又兵衛の本陣があって、その本陣の間取り図を重ねてみれば…

今、小広町という地名が見当たらなくて分からないのですが、脇本陣がある所なのでおそらくこの近くに、大きな宿泊施設があったことが推察されます。

 

こうしてみると、江戸時代

兵庫の津と西国街道は、参勤交代のたびに多くの人の流れがあり、そこに食べ物やもてなしの数々の物流があって、灘の酒もあり、本当に賑やかで反映していたことが伝わってきます。

 

 

今夜は、灘の生一本を飲みながら「下にぃ~、下に!」の大名行列を妄想しながら江戸時代の神戸の妄想を楽しむとしようかな?

 

 

いいね。やっぱり神戸が好き。

 

もっと KOBE ずっとKOBE

 

ではまた次回をお楽しみに♥

 

 

過去の関連ブログ

神戸と言えば「灘五郷」! - もっと KOBE ずっと KOBE

はじまりは兵庫津(ひょうごのつ)から - もっと KOBE ずっと KOBE

神戸の街道物語り ☆ 西国街道に残る菅原道真の足跡 - もっと KOBE ずっと KOBE

前編☆150年を迎える元町商店街の老舗!(1番街・3丁目・4丁目) - もっと KOBE ずっと KOBE

後編☆150年を迎える元町商店街の老舗!(5丁目・6丁目) - もっと KOBE ずっと KOBE