♪ あ~おい目をしたお人形は、アメリが生まれのセ~ルロイド
日本の言葉がわからない ------<中略>
やさしい日本じょう(嬢)ちゃんよ
仲良く遊んで やっとくれ
仲良く遊んで やっとくれ ♪
ちょっと切ない歌詞に子供心に『何とかせねば!』と思ったことでしょう。

日本にやって来た 青い目の人形
1926年12月から約12,000体も人形を乗せた12隻の船が日本をめざしてアメリカの港を出港して、続々と横浜、神戸港に到着しました。
友情人形(フレンドシップドール)は「青い目の人形」と呼ばれ大歓迎されました。
「青い目の人形」は1927年(昭和2年)に親日家で宣教師でもあったシドニー・ギューリック博士の提唱で、日米親善のためにアメリカ合衆国から日本の幼稚園や小学校に贈られた人形です。
当時は「日米親善人形」とか「日米親善大使」とも呼ばれていました。
人形たちに託された願い
「日米親善大使」と言うからにはそこには深い思いがありました。
19世紀末から20世紀初め、アメリカやブラジルなどへ多くの日本人がか移住し、その数はアメリカだけでも約12万人にものぼりました。
真面目によく働く日本人が、白人労働者の職場おびやかすと言われ、次第に反感を招くようになりました。
そして遂には、移民を制限しようとする動きがアメリカに広がって、日本人を排除する排日法の「新移民法」がアメリが議会で1924(大正13年)可決されました。
日系の人々は排日の動きの中で、差別や嫌がらせなどの苦難の生活を強いられ、日本とアメリカの溝は深刻なものになっていきます。
そんな状況下に、宣教師のシドニー・ギューリック博士は日米関係の悪化に心を痛め何とか日米の親善を図る方法がないかと考えました。
次世代を担う子供たちを中心としたアメリカ人に人形を通して日本の文化や日本人を理解してもらおうと考え人形交流を計画したのです。
ギューリック博士の計画を知った、1万円札の渋沢栄一氏が「日本国際児童親善会」という受け入れ団体を作りアメリカから「日米親善大使」として12,000体もの人形が日本に贈られました。

神戸にやって来た青い目の人形たち
ここからは、「青い目の人形 メリーの旅」 西村恭子著(神戸新聞総合出版センター)に書かれている内容を紹介します。

県内で知事や市長などの関係者と、神戸市内の各学校から生徒代表十人が参加。
会場は千人以上の人であふれたと3、4日の両日のにわたり神戸新聞が伝えている。
アメリカ生まれのお人形さんを
お客様にけふ歓迎会
午後二時から県立高女でひらかれて
日本と米国のコドモたちが歓迎歌合唱
お雛まつりこの日(三月三日付)
神戸に青い目の人形が届いたときの様子がうかがえます。
歓迎式や人形の展示の後、兵庫県に配られた318体の人形のうち神戸市には90体の人形が送られて、幼稚園や小学校に配られました。
日本からのお返し「答礼人形」
日本からも民間の寄付をもとに47都道府県と当時の統治下にあった地域の代表の日本人形と6大都市の人形と日本を代表する「倭 日出子(やまと ひでこ)」がアメリカ各州に送られました。
人形には旅行鞄ではなく、箪笥・長持ち・鏡台などのお道具類とパスポート、手紙が添えられています。
答礼人形一行は、サンフランシスコに上陸し大歓迎を受けたのち、アメリカ各所へ旅立っていきました。
青い目の人形たちを見舞った悲しい出来事
民間の壮大な人形交流の約13年後に日本は太平洋戦争へ突き進んでいきます。
敵となったアメリカの青い目の人形たちは、「敵国の人形」とよばれ処刑のようなことが各地で起こりました。
人形に罪はないという思いから、大切に守られた人形もいました。
神戸に残る青い目の人形
神戸には90体の青い目の人形が贈られてきましたが現存しているのは5体だけだと、西村恭子氏の著書が伝えてくれます。
その人形には、メリーちゃん、マダリンちゃん、ローズちゃん、キャシーちゃん、シャノンちゃん。(シャノンちゃんは氏名不詳でしたが、ギューリック博士の子孫のギューリック3世によって近年命名されました。)

人形たちが伝えてくれた
私が人形交流の事を知ったきっかけは、青い目の人形ではなく答礼人形でした。
アメリカの博物館に展示されていた『ミス兵庫』の里帰りに尽力された、高岡美知子氏が答礼人形との出会いに『運命を感じた』と30年ほど前に熱く語ってくださいました。
その当時は、あまりピンと来ていませんでしたが高岡氏が日米の間で答礼人形の消息を探したり、修復のために熱心に動きまわられる姿は、ギューリック博士の情熱につながるように思えます。
『もう二度と悲しみがおこらないように』
親善人形を支えてくれた両国の関係者に
青い目の人形の消息を本にして著してくださった西村氏に感謝します。
いいね やっぱり神戸が好き
もっとKOBE ずっとKOBE
ではまた次回をお楽しみに♦