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神戸にあった荘園と庶民の暮らし

鎌倉時代の神戸の庶民の暮らしは

平安時代から引き続いて「荘園」制度の下で暮らしていました。

この「荘園」とは、奈良時代半ばから新たに開墾した土地の私有が認められ、貴族や寺院・有力な豪族が私有地を拡大し、国から領有支配が認めらえ収入を得た私的な土地です。

そしてこの「荘園」は、領主だけでなく、そこに住む人たちまですべての社会層にとって、生活・経済的基盤になっていました(出典:AI)

 

鎌倉時代の荘園は、幕府に年貢を納めています。

そして領主の支配力が強くなると、生産活動の中心として働いていた上層農民や名主が領主から耕作を請け負い、下層農民を支配する形が出来上がります。

 

この時代、農業技術がとても発達したようで、二毛作や鉄製農機具の普及により生産高が飛躍的に増えました。これにより、農民層にも経済力が付きはじめ領主への権利意識が高まることとなりました。*1 

 

と・・・「荘園」の知識を入れた所で、神戸にあった「荘園」を紹介します。

出典:兵庫県五カ国荘園分布図(竹内理三)より抜粋

ブルーで囲っている所が、現在の神戸市です。

荘園が出来た時代ごとに色分けしてみました。

平安時代鎌倉時代ピンク南北、室町時代黄色です。

下記に、時代・荘園名・領主を表にしてみました。

 

これを調べてビックリ!

神戸の荘園のほとんどが、京都の貴族や寺院の領地になっているのです。

まあ、平安時代から神戸を訪れる都人は多かったからあり得る話ですね。参考過去ブログ2・3・4)

 

南北・室町時代の伊河庄の領主・太山寺は唯一、神戸の地元のお寺が領主となっています。今は国宝のお寺となっているから、相当の格式があったことが分かります。参考過去ブログ5)

 

チョット聞きなれない領主名を調べてみました。

北野社北野天満宮の別名

 なんと北野天満宮には7つもの別名があることが分かりました。(一つにしろっ!ややこしい

 

鎌倉時代の葦屋庄の領主長講堂とは

 後白河法皇の持仏堂である長講堂に付属した所領

 

►南北・室町時代黒田庄領主

 殿下渡領(でんかわたりりょう)とは

 藤原氏氏長者が伝領した所領で、摂関家領荘園郡の一つ

 *2

 

鎌倉時代の、輪田・神戸庄領主九条家

 藤原氏北家の嫡流で、鎌倉初期に源頼朝の推挙で摂政・関白となった兼実が興したのが始まり

 

領主とは、地位や名声・権力が無いとなれないようですね。

 

 

☆ ☆ ☆

 

その領主の元で働く「庶民」の暮らしを調べてみました。

 

彼らの住まい

領主が持っている荘園に住んでいました。

といっても堂々と住めるわけもなく、田畑の周辺や道端に住んでいました。

 

そして彼らの家に、ビックリ!

縄文時代の「竪穴式住居」に住んでいたのです。

 

 

     三内丸山遺跡にある竪穴式住居

 

また、鎌倉時代特有の「方形竪穴式住居」というスタイルも登場しました。

下の写真は、神戸市西区にある吉田南遺跡で弥生時代の竪穴式住居群です。

吉田南遺跡 *3

この写真から推察するに、竪穴式住居の床の形は基本・円形か正方形ですが、鎌倉時代に登場した方形竪穴式住居は、床が長方形のモノが多いのかもしれません。

「鎌倉地図草子」(歴史探訪社)に鎌倉時代の様子をイメージしやすい挿絵があります。

この絵に書かれている家々が、すべて方形竪穴式住居ということになります。*4

これは関東の鎌倉市での話ですが、

全国的に見て庶民の住まいは似たようなものだったと思います。

なにせ、荘園の領主が政治の中心の都の権力者だったのですから、全国的に波及していたとしても不思議ではないですね。参考:過去ブログ1)

 

☆ ☆ ☆

 

庶民の生活

荘園の田畑で作った米や作物は、年貢として貴族と武士への二重払いをさせられていました。さらに領主の屋敷の修繕や大工仕事、また戦があれば兵として借りだされるという、貧しく厳しい暮らしをさせられていました。

なぜ、武士にまで年貢を…と思いますが、鎌倉時代は武士が台頭してきた時代です。

その武士は、貴族や領主に付いて土地と主を守る役目をしていたので、大きな顔をして年貢を自分たちのモノにしていたのです。

いつの世も、こうした嫌な奴っているのですね。

 

また、西区にある神出窯跡群(かんでようせきぐん)は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて、古墳時代後期に伝わった東播系須恵器(とうばんけいすえき)の流れをくむ焼き物が盛んでした。

とくに、鉢や椀などの日用食器類や、都の寺院や宮殿に使われる瓦も焼いていたようで飛躍的な発展を遂げて、国内でも有数の焼き物の里として知られていて、様々な焼き物が出土しています。

 

写真は、神戸市埋蔵物文化財センター

平成30年度周期企画展「神戸はかつて焼き物の里だった」リーフレットより *5

 

☆  ☆  ☆

庶民の食事

この時代は皆、1日2食でした。

庶民は作った米を年貢で持っていかれるので、麦・粟(あわ)・稗(ひえ)などを食べていました。一部、玄米が混じったお粥を食べることが多かったようです。

特別な日(祭礼など)のご馳走として強飯(こわめし)があったようです。

 

強飯(こわめし)とは、現在の「おこわ」のルーツと言われています。

「おこわ」はもち米で作りますが、強飯は玄米を蒸して作っています。*6

 

庶民の服装

男性は、小袖と袴が一般的で武士以上に動きやすい服装になっています。腰には火打ち袋を下げ、腰刀を差しているのが一般的だったようです。

女性も、小袖で歩きやすくするために裾をたくし上げた着方をしています。頭は、長い髪を頭上でまとめる為に白い布で覆っています。*7

 

★参考過去ブログ

過去ブログ1

poko2023.hatenablog.com

 

過去ブログ2

poko2023.hatenablog.com

 

過去ブログ3

poko2023.hatenablog.com

 

過去ブログ4

poko2023.hatenablog.com

 

過去ブログ5

poko2023.hatenablog.com

 

文中の引用・出典サイト

*1 出展:荘園 (日本) - Wikipedia

*2引用:AI

*3引用:神戸市埋蔵文化財センター:神戸の遺跡:西区:吉田南遺跡11

*4出典:え? 鎌倉時代って竪穴式住居だったの?!

*5引用:https://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/center/images/30koubeha%20katute.pdf

*6出典:鎌倉時代の食事ってどんなもの?どんな食べ物や料理があったの? | ごはん彩々(全米

*7引用・出典:鎌倉時代の武士や民衆のくらし|社会の部屋|学習教材の部屋

記事:参照文献 鎌倉時代の住宅(家)とは/ホームメイト

 

 

いいね。やっぱり神戸が好き。

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ではまた次回をお楽しみに ♥